Tuesday, December 8, 2009

ラヴェルナ山と、歪む時間


お勧めな場所


イタリア在住も10年近くになり、「イタリアで、お勧めな場所は?」などと聞かれることも多くなった。しかし、相手がどんな人なのかによって、答えは相対的に変わってくる。美術鑑賞が好きな人ならフィレンツエを勧めるだろうし、ロマンチックな雰囲気を楽しみたい人ならヴェネツイアなどを勧めるかもしれない。
でも、「イタリアで好きな場所は?」と聞かれれば、私の独断と偏見だけで答えられる。ラヴェルナ山(Monte della Verna)は、そんな私の最もお気に入りの場所の一つだ。

[ラヴェルナ山の修道院の入り口。
聖フランチェスコは小鳥へ説教した事でも有名である ]

聖フランチェスコの聖痕

ラヴェルナ山はイタリア中部、トスカーナ州とウンブリア州の境あたりに あり、その頂きには、フランチェスコ修道会の修道院がある。そこはイタリアの守護聖人、アッシジの聖フランチェスコが40日間の断食をして祈り続けている最中に聖痕を受けた場所として知られている。聖痕とは、キリストと精神的な同一化によって、キリストと同じ場所に傷が現れる現象のことを指す。
私たちの体は外的な要因だけでなく、内的な要因でも傷ついたり、癒されたりもする。とは言っても、この現象は奇跡と言って良いだろう。聖フランチェスコは、当初、その傷を隠していたという。しかし、弟子達によって確認され、語り継がれるようになった。歴史上、最初の聖痕だった。その現象は、聖フランチェスコに限らず、カトリック世界では何度か確認されているものらしい。
[聖痕拝受位置にろうそくが灯る聖痕礼拝]

時差ぼけと、霊気ぼけ


私が初めてラヴェルナ山に向かったとき、その山に近づくに つれて強烈な眠気が襲ってきた。たちの悪い時差ぼけの様な眠気だった。修道院には宿泊施設があり、空き室さえあればいつでも泊めてくれる。眠いのを我慢してチェクインを済ませ、どうにか部屋までたどり着いたのを覚えている。ベッドと机という必要最低限のものしかない修道院の部屋に入るなり、 私は熟睡してしまった。
その数日の間、辺りの山を散策している最中や、教会でミサに参加している間にも眠気が襲ってきて、朝、昼、夜、とにかく部屋に戻っては寝まくってしまった。こんなに寝りこけたのは、あれが最初で最後の経験だ。
いわゆる世界のパワースポットは岩盤地質の所に多い。ラヴェルナ山も切り立った石灰岩の絶壁の上にある。岩盤は地球のエネルギーがダイレクトに伝えるからなのだろうか?修道院の周りにも、岩とその割れ目がたくさんあった。辺り一帯の霊気に、ただならぬものを感じた。
私は、あの眠気は慣れない強い霊気によるものかも知れないと勝手に関連づけている。「時差ぼけ」ならぬ「霊気ぼけ」だったのかもしれない。 「時差ぼけ」とは物理的な高速移動に体がついて行けない時に感じるものであり、「霊気ぼけ」とは高速な次元移動に体がついて行けない時に受ける現象に違いない。
[聖フランチェスコが好んで瞑想したと言われている場所]

山から降りてきて感じた歪む時間

自分の眠気に高尚な理由をつけてしまっているのを自嘲してしまいそうになるのだが、その後、不思議な感覚があった。その眠りこけた修道院滞在から、ミラノに帰ってきて、時間の流れ方が異常に遅くなっているような気がしたのだ。
たとえば、ふと道端で目を上にやると、ちょうど街路樹から葉が落ちる瞬間で、その葉が優雅に舞いながら、ゆっくりと自分の足下まで落ちて行ったのを何気に凝視していた。バールでカフェを飲みながら会話している人達の気持ちがダイレクトに伝わってきて、彼らが笑い 合う数秒前には彼らが笑い合うことを知っていた。
気のせいだと笑われるかもしれないが、なにか時間という得体の知れないものの中にある自分自身を、初めて認識したのだった。

普段は入り込めない瞬間に、自分が巧みにもぐり込んでいた。分かりやすく言うと、目の前のすべてが映画のスローモーションの様に見えるような気がした。
「一瞬が走馬灯のように駆け巡る」とか、「野球の名バッターがバットにボールの縫い目が当たる瞬間を見た」などという眉唾な現象を聞いたことがあるが、その感覚も、あながち嘘ではない、という気もしたのだった。そして、すべての生命体のうごめきが尊いもののように思え、一瞬、一瞬に全身全霊で集中していた。
そして、その瞬間に対する高い集中力のせいで、一日にたくさんの出来事が起きた。というか、たくさんの小さな出来事に気がつくという言い方が正しいのかもしれない。それで時間の流れが、ぐっと遅くなったような気がしたのだ。「今日は、たくさんの出来事があって、刺激的な一日だったなあ」と思って、時計を見てみると、まだ朝の11時だったりした。
ラヴェルナ山初滞在の後、ほんの一週間程であったのだが、このゆったりと流れる時間を楽しんだ。 
[ラヴェルナ山の朝霧の森]

感覚的なカイロスと規則的なクロノス
話は変わるが、ギリシャ哲学では、時間の観念には二種類あり、それぞれクロノスとカイロスと名付けられている。クロノスは、例えば一日を24等分したものを1時間とする時計の針の様な均等に進む時間を指す。カイロスは、感じたままに伸び縮みする歪む時間や、繰り返したり逆流したりできる時間を指す。
ギリシャ哲学では、私たちは「規則的なクロノス」と「感覚的なカイロス」と言う2つの時間の矛盾を抱えたま ま、日々、時間を送っていると説明している。クロノスは地球の自転と公転によって決まるものなので、私たちは従順に従うしかない。一方のカイロスは、私たちの気の持ち様でコントロールできるものなのだ。
[岩肌の苔に、巡礼者が祈りをこめて刻まれた十字]

西洋占星術に造詣の深い友人による と、自由自在に歪むカイロスの時間が、年々加速しているのだそうだ。今までの2000年の間、地球は魚座に支配されていた。それが現在、次の2000年間を司(つかさど)る水瓶座の時代に移行する途中であるらしい。
その移行期には、人類の気分として、カイロスの時間が全体的に加速するのだそうだ。聞いて驚くなかれ、魚座の時代に終わらせなければならない事項が多い為に、駆け込み的に時間が過ぎる現象なのだとか。そして、彼らの暦では2013年には移行が一段落する。その後はカイロスの時間の次元が変化して、減速傾向に転じるだろうと言う説まであるらしい。

「年齢を重ねるごとに、時間が流れるのが早く感じるものだ」と、よく年長者は言うものだ。しかし、ここ数年はそれ以上に速いのではないか?普通なら10年かけて起こるような事が、1年で起こってしまうようなスピード感がある。

私たちは「感覚的なカイロス」の時間を十分にかけられずに、「規則的なクロノス」の時間で年齢を重ねていることにもなる。例えば、40歳前後の男性をターゲットにした雑誌の内容や彼らの消費傾向は、昔で言うところの30歳前後の男性とたいして変わらないのだそうだ。「感覚的カイロス」の時間があまりに加速しているので、我々は成熟する時間さえ足りないということなのだろう。

時間を歪められる唯一の場所

クロノスとカイロスの話も、占星術の話も、本当かどうかは私には分からない。しかし、世の中の変化は確かに早い。早すぎて、よく分からない。世の趨勢(すうせい)を見極めるためにも、時間を減速させてみたい。とにかく、時間は歪むのだ。

そして自分の時間をコントロールしたいとき、ラヴェルナ山を訪れることにしている。そこは私にとって、時間を歪められる唯一の場所だからだ。