Sunday, March 11, 2012

湿潤な森の民と、砂漠の民の思考様式

あえて、二つの思考様式に単純化
世界には、日本人と欧州人以外にも様々な人がいるのは私も知っている。しかし、ここではあえて分かりやすく、湿潤な森の民の日本人と、砂漠の民の欧州人の思考様式の二つに単純化して考えたい。原始的生理的な思考回路について話したいので、農耕、狩猟以前の話として、思考を整理してしまった事を、先にお詫びしつつ。。。私独自の洞察ではない。いくつかの書籍や食事の時の友人との議論などを思い出しながら、どうしても今、この対比を再構築したいのだ。

湿潤な森の民の「観察力」ー 神は自然の中に
我々、日本人を湿潤な森の民という事にしよう。農耕がはじまる以前の縄文の日本は山野を問わず、照葉樹の森林が鬱蒼と茂っていたと聞く。夏の蝉の大合唱は、今よりも壮大だったに違いない。あと、実は現在でも農耕や狩猟に適した平地や丘陵地帯は少なく、日本の国土は山に覆われており、その国土面積における森林率は70%近くもあるのだ。水が豊富な湿潤な気候で、梅雨時や夏などは空気がこれ以上水を含むのは無理というくらいの湿気だ。土さえあれば放っておくと、人間にとって益がある植物も、ない植物も、そこら中に生えてくる。でなければカビがはえ、苔で覆われる事もあるだろう。生物が息絶えれば、すぐに悪臭を放ちはじめ、腐り、土にかえって行く。自然を観察するだけで、輪廻転生の大劇場を見る事となる。湿潤な森の神業と言えよう。我々は自分の位置や存在も、自然との関係性の中で、相対的に捉える。森を注意深く観察するだけでも無数に食べるものもあっただろう。生命に不可欠な水を飲みに小川に行けば、川面に映る自分を見る事も簡単だったはずだ。やがては自分たちも他の生物と同じ様に土に帰って行く事も直感的に知っていた。そして、自然すべてに神が宿ると考える。なおさら自然を観察し、寄り添い、静かに感じ取ろうとする。それが、神に近づく行為なのだから。そして、自分たちを自然の輪廻転生の一部と相対的に位置づけ、神は自分たちにも宿ると考える。

我々の思考様式は、「観察」を元に発している。観察し、様子見し、寄り添い、無言の空気を読み、そしてやっと相手が聞きたい様子があれば、自分の意見を控えめに言ってみると言った感じだ。その意見も決して絶対的なものでなく、相手の出方によって変化する。そんな思考様式にとって、動詞が最後に来る文法はとても好都合とも言える。相手の顔色次第で、最後の動詞を否定形疑問文に変えたり曖昧にすることも可能なのだ。そして、一人一人が独立している必要もなく、依存しあって行きていくのが良しとされる。個人よりも寄り合いの意思が常に優先される。あと、「甘え」という行為が、「甘い」という言葉の由来からも肯定的な文脈で語られるのも特殊な文化と言える。

湿潤な自然は、やはり心を穏やかにさせるものがある。


砂漠の民の「概念力(コンセプト)」ー 神は空の上に
欧州には、夏の太陽が大地を焼尽す様なギリシャや南イタリアもあれば、冬空にオーロラが観測できるようなスカンジナビアまである。ただ、原始的な農耕やのんびりとした狩猟に適した穏やかな気候帯はローマなどのイタリア中部やフランスなどの欧州の一部であり、その大部分は、極端に乾いた地域か、冬は極端に寒い地域なのだ。欧州人が信じる宗教や哲学は、エジプト、イスラエル、ギリシャなどの地中海の乾燥した砂漠地帯に発しているのだが、その教えが欧州の極寒地域にも広まったのは、ある意味では似た自然環境にあったからだと言えるだろう。乱暴な言い方だが、彼ら欧州人の思考様式は、砂漠の民のものだと言える。

厳しい自然環境だが、ノマド達は、砂漠に尊敬を払っていた。
「サハラ、美しいだろ?」と誇らしげだった。 

サハラ砂漠に行った時の事を思い出す。砂漠の民の案内がなかったら、地図があっても、方位磁石があってもすぐに迷っただろう。山も川もないのだから、周りの風景からは自分の位置が割り出せない。風が吹けば、砂が舞い、一日で風景も自在に変わってしまう。彼らはどうやって、自分たちの位置がわかるのだろうか?私には見当もつかなかった。そして、自分の声に戸惑った。普通に話すと、誰にも聞こえないらしい。そもそも自分にさえ自分の声があまり聞こえてこないのだから、変な不安が襲ったものだった。声が反射するものが周りに何もなく、砂風が自分の声まで連れ去ってしまうのだ。だからだろう、彼らはノドをかき鳴らして大声で話す。アラブ語やヘブライ語で、ノドの奥の方でガラガラ発声するのを聞いた事がある人も多いはずだ。自分の位置が分かりづらく、自分の声まで聞こえないような場所では、自分という人間の輪郭が曖昧だと生きた心地がしない。自分がしっかりと独立している必要があるのだ。周りに依存できるものは何もないのだから。しっかり自己主張をして、ノドをかき鳴らして大きな声で話さないと、アイデンティティークライシスに陥るだろう。言うなれば、砂漠では自己の存在確認さえ自発的に行わないと、危ういのだ。
大昔の砂漠の民も、旅の途中でノドが乾く事もあっただろう。そんな時は「神よ、泉に導びきたまえ」と上を向いて言ったに違いない。周りには砂と岩しかないのだから、上を向くしかないのだ。自然をいくら観察しても、泉の場所は分からない。「概念」として、頭の中で想像し、直観するしかないのだ。そんな過程で、彼らは、概念の中に存在する絶対的な神に、彼ら自身を委ねる事を学んだに違いない。そして、もし神が居るならば、その存在が空の上にいる事は誰一人として疑わないのだ。

例えば、街や庭園の作り方の対比
「観察」と「概念」。この二つの思考様式を、街や庭園の作り方を例に比べてみよう。
我々の日本の街は、定期的不定期にいらなくなった建物を壊し、必要に応じて新しい建物を、その都度増殖して行く。森の輪廻転生が、そのまま街に応用されている。庭園も長い時間を掛けて木々と対話し、苔を育てたり、離れの建物などが古ぼけて来て、侘び寂びの世界に達した所で完成する。「観察」して、様子見して、自然に寄り添う様に時間を掛ける必要がある。
 日本人の美的感覚は、輪廻の一部を切り取るのが最高に上手い。

比べて欧州の街は、まずは頭の中で都市計画を概念として構築する。イタリアならば街の中心にドゥオモ教会と広場を作り、そこから放射線状に道路を作って行く。その概念を現実化した段階ですべては完成する。完成に何百年かかる事もある。だが、その後何百年経っても、その町並みは変わらない。なんといっても、都市計画という「概念」が先に立つ。庭園も然り、デザインと計画が概念として先にあって、それを具現化して行く。ベルサイユ宮殿の庭などは、その最たるものだろう。

 概念の中で美を構築する欧州人。
一度完成したからには、何百年も街の景観は変わらない。
神がいるとされる空への憧憬のせいか、
建築のデザインも上に向かうラインが強調される。

誇るべき思いやりの気持ち、学ぶべき概念
震災後の日本人の冷静さとエゴの少なさには世界が度肝を抜いた。そんな他を思いやる気持ちの根幹には、なんといっても他を見る力、要するに「観察」が必要とされる。他に迷惑にならない様に慎重に用心し、周りから自分に求められているのは何なのか?をまず考える。我々日本人は、森の民の心根のやさしさに関しては誇るべきものがある。欧州人も、そんな日本人に魅了され、今、我々から何かを学びたいと思っている。日本人の国民性が、これだけ世界に肯定的に捉えられているのは、正直なところ、歴史上初めてなのではないか。

ただ、それとは反対に「概念」として物事を考えて、計画を遂行する力は、欧州人から学ばなくてはならない。

我々は、「あなたの意見は?」と聞かれて、答えに窮する場面も多い。「そりゃ、場合によりますね」なんて答える事も多いだろう。状況の様子見や、相手や周りの出方によって、意見がぶれるなら、それは純粋なあなたの意見ではない。周りを観察し、求められている自分の立場を見極めてから、自分の出方と意見を決めるといった思考回路が、なんの疑いもなく一般化している。概念として、自分の意見を頭の中で自ら構築し完成する事は我々は極めて苦手だと言わざるを得ない。

なぜ今、私がこの点にこだわっているかと言うと、原子力発電の事故と、森の民の「観察を中心とした思考様式」が、どうにもかみ合っていないように思うからだ。原子力発電そのものが、「砂漠の民の概念的な側面」がある事に注視すべきだと思うからだ。

 ピーク時には一度に三千人もの人が渡ると言う渋谷のスクランブル交差点。
「人にぶつからない様に渡るには、無意識下の他人への思いやりが必要とされる」
外国語のガイドブックには書いてあるそうだ。
それを聞いて苦笑いしてしまったのだが、外人にとってはミステリーらしい。

太陽を模したような畏れ多いものの扱い方ー推進するにも概念の力が必要
「核分裂を連続的に起こしながら、自らエネルギーを発する原発は、空の太陽を模したような畏れ多きモノ」などと書き表した文章をネット上で読んだ事があった。確かに、その他のエネルギーは自然のものを一回きりで燃やして得るものや、自然の働きを利用する受動態なのに対し、原子力は少量の自然ウランを必要とするものの一度核分裂がはじまると、放っておけば連鎖的に核分裂を続ける能動態なエネルギーだと聞く。受動態エネルギーのように、自然を観察し、対峙して「利用させて頂く」モノではない。むしろ、「エネルギーを無から創造」しているようなイメージがある。その点において、原子力は、西洋人の神の様に「概念」として頭で理解する必要がある。
そして、燃料として使い終わった核廃棄物は地下深く埋めて、10万年は近づいてはならないと言う。実際、ノルウェイには、その説に基づいた稼働施設があるらしい。エネルギーを作って、害がなくなるまでワンサイクル(ひと循環)するのに、人類が存在するかどうかもわからないぐらいの長い時間がかかる。この長い未来のサイクルを輪廻転生と呼ぶ事はできない。イエスキリストの時代が2千年前、謎に包まれ考古学でも解明できないエジプトのピラミッドの時代が5千年前でしかない。10万年とは、人類の歴史からすると永遠に限りなく近い。要するに輪廻させてはならないわけで、砂漠の一神教の概念の如く、永遠に天国か地獄に葬る覚悟が必要なのだ。
観察して、様子見して、その場その場で対策を練る思考様式が通用する世界ではない。欧州人の数百年を見越した都市計画でも十分とは言えないものの、彼ら欧州人の方が現実味を持って対処できる概念の力があるだろう。推進していくにしても、概念の力が必要となる。


危険を理解するのにも「理性的な概念」の力が必要
事故が起こったとして、原子力が発する放射線や放射性物質は、近づくとすぐに怪我をする様な分かりやすい危険性をもってない場合もある。しかし、生物の一番奥深くに宿る何億年もの情報、すなわち遺伝子を操作する可能性を秘めている。いわゆる生態系サイクルの外にあるものなのだ。そこを頭で理解して「概念の世界」で丁重に扱う必要性がある。表面的には痛くも痒くもないものなのだから。
放射線や放射性物質の存在は、我々よりも五感が優れていると言われている動物でさえ危険を感じない。とにかく「観察」の世界を越えているのだ。「こういう物質が外に出ると、この値で、これらの危険の可能性があり、何年後にはこんな症状がでるかもしれない」と、学問的に概念の世界で理解する必要がある。自らの遺伝子と健康を守っていくためには、見えもしないモノの値を測定し、まだ見ぬ危険を頭の中で想像する事も大事なのではないか?
「まだ、身の回りで病気になった人の話も聞いていないし、、、」などと周りを観察しているのではないだろうか?そういうべき局面ではない。観察で目に見えてくるのは、数年後、数十年後に、すでに遺伝子が傷ついて後戻りできない症状が起こってからかもしれない。

14世紀、欧州ではペス トが流行し、人口の3割が命を落としたと言われている。もし今、ペストが全世界で流行しても、欧州人の遺伝子には耐性があるために、欧州人にはあまり影響がないだろうという説もある。そんな達観した見方で、原発事故周辺に居住する日本人の中でも放射性物質に耐性のある遺伝子だけが健康でいられるだろうと言う意見を耳にした事があった。
しかし、危険の可能性がそこにあり、その理由も原因もわかっているならば、それを避けるのが生物の野性であり、生きる尊厳なのではないか。できれば、無駄な犠牲を避けるべきだろう。もし、火が燃え盛っていれば、やけどをしない様に逃げるだろう。ただ、原発の事故のトリッキーな点は、その危険を理解するのにも「理性的な概念」の力が必要なところだ。

世界が憧憬する日本人の冷静さとエゴの少なさは、自然災害の震災には威力を発揮した。しかし、原発事故は、「観察」し、様子見し、受容すればするほど、事態が深刻化していく可能性がある。

 2012年3月2日から
ミラノのトリエンナーレ美術館で行われている「Made in Japan展」

創造主である人間が止めない限りは決して収束しないー収束させるにも概念の力が。。。
そして、普通の自然災害の場合は、観察し様子見したりしているうちに、自然の回復力や時間が解決してくれる事もある。しかし、原子力の事故がおきた時は、「創造主である人間が止めない限りは決して収束しない」。日本からの報道に触れる限りでは、そんな緊張感があまり伝わってこないのが不思議で仕方ない。最終的に、どう終わらせるのか?正直な所、概念力による具体的な収束プランは、未だないのだろう。素人目にも、様子を見ながら策を講じているような印象がある。実際、一年経っても、原発事故は地震が原因なのか、津波が原因なのかも、はっきりさせたくないのだから、収束も遅れるのも無理ない。

日本政府の発表通りに「放射性物質は、もうフクシマからは出ていない」という前提で話を進めようとする老ジャーナリストが大きな発言力をもっている状況に、私は狂気を感じる。
また、「チェルノブイリ事故の被害者は、数十人だった」とする、情報統制の激しい旧ソ連やロシア、または独裁国家のベラルーシの政府などの発表の数字で語るようなメディアリテラシー能力が低い時代遅れの言論人が、少なからずはばかっているのも、気になるところだ。また、彼らの知的水準がそれなりに高いからか、その文章や言論は、数字やデータを駆使し論理的に聞こえるのが、なおさら質が悪い。ただ、情報ソースが権威側に偏っているのが、かわいそうでもあり非常に痛々しい。
加えてウイーンには国連の国際原子力機関があり、原子力技術の平和利用の促進のために精力を注いでいる。要するに国連が発表する数字にも原子力発電推進のバイアスがかかっている事も忘れてはならない。

また、一方で、放射能の恐怖を煽った商売というのも実際あるようだ。どの辺りが本当の情報のバランス点なのかを見極めるのも至難の業だ。

推進するにせよ、危険を理解するにも、事故を収束させるためにも、概念での思考様式が必要
とにかく、原発を推進するにせよ、危険を理解するにも、事故を収束させるためにも、 概念での思考様式が必要とされる。自然との語らいを得意とする観察の思考回路で扱うのはとても危ういように思うのだ。

政府の至極良い加減な「収束宣言」などは、我々の穏やかな森の民の国民性に、為政者が甘えているとしか思えない。ただ、長い年月を経てできた思考回路なわけだから、すぐに変えることもできないのかもしれない。
とは言え、少なくとも、概念の思考回路で論理的に議論し合える様な環境作りは出来ないのだろうか?まずは小さな単位からでも、家族や友人と、まともに向き合って、自分の頭で考えた意見を話しあう習慣を意識的に作ってみるべきだと私は思うのだが。もうそろそろ、「周りの空気を読み過ぎる」傾向をやめようではないか。

実際的には全く無力な私ではあるのだが、欧州人に日本の文化について聞かれるたびに、日本的な「観察」と思いやりの思考様式の素晴らしさを伝えている。それが、世界が少しでもいい場所になっていくための、小さな努力だと信じて。。。そして、震災後に見せた日本人の精神的な強さが、私の言葉に説得力を与えている。

そして、逆に今、日本の家族や友人達には、欧州的な「概念」の思考回路を伝えたい。我々日本人には、一般市民だけでなく知的層においても、この思考回路がすっぽりと抜け落ちているように思えてならないからだ。

そんな弱点を考察しつつも、自虐的になる必要はない。実は、外から見る日本は、とてもたくましいのだ。被災地に足を踏み入れている人の話では、実際の復興は進んでいないとも聞く。しかし、海外目線では災害後の立ち上がりの良さに、ガイジン達が「すげー奴ら」と思っている事も忘れないでほしい。海外生活も18年になるのだか、今程に日本人である事を注目された事もないし、私自身、こんなにそれを誇りに思った事もない。これからも自信をもってやっていこうではないか。。。