Monday, September 15, 2014

ヨガ瞑想と、螺旋の蛇「クンダリーニ」

螺旋のくねりと瞑想
僕の場合、ライフスタイルが、趣味とプライベートと仕事で渾然一体と混沌としているからか、熱意をもって習い事などに取り組む事が、どうもなかなか難しい。

そんな中で、唯一続いているのは「ヨガと瞑想」。15年以上も続いている。さほど上達する訳でもなく、なにか目標があるわけでもないのだが、カラダが欲するので、とにかく続いているのだ。

ニューヨークに住んでいた20代、写真の勉強が一段落した頃、撮影を通して、肉体とその見せ方にも興味があり、ダンススクールに通っていた時期があった。全身を使って表現活動するダンサーに、とかく憧れていたのだ。

ダンサー達の生活を見ていて、彼らがステップを踏む前に、肉体のチューニングに多大な時間をかける事を知った。その頃、ダンススクールで出会ったのがヨガ。多数のダンサーが、単なるストレッチではないヨガの重要性を感じていた様子だった。ダンサー達に混じってのヨガは、ひたすら自分の体の硬さが際立ったものだ。どんなポーズをしてみても、自分の目線が他のダンサーよりも数段高くて、自分が不器用な熊になった様な気分だった。


ウォーミングアップ中のダンサー

ダンススクールのヨガのクラスを何年か続けていた頃、それだけでは物足りなくなり、マンハッタンのチェルシー地区にあったインド系ヨガ道場の門を叩いた事があった。そこは祭壇などもあって、いかにもそれらしい雰囲気があった。特別な呼吸法も教えてくれて、アクロバットなポーズも教えてくれた。元々、ダンススクールのヨガのベースがあっただけに、技の取得は簡単だった。メソッドが確立されていて、先生方に長年の経験がなくても、マニュアルに従って教えられるシステムになっていた。

そして、僕が、そのヨガ道場の数回目のクラスを終えた後、不思議な事が起こったのだった。帰り道、信号で待っていると、腰の辺りが上から見て時計回りに勝手にくねりだしたのだ。そして、チェルシーホテルの隣のビルにあった写真スタジオに戻るために、エレベーターを待っていた時も、また、同じ様に腰の辺りに時計回りの螺旋のくねりを感じるのだった。

「なんだ、なんだ?俺は狂ってしまったのだろうか?」

と自分を疑った。不動の地に立っているはずなのに、自分一人で勝手に、腰の辺りでバランスを取っている様な感じだった。歩いている時にはなにも感じないのに、信号待ち、エレベーター待ちなど、立ち止まると、その動きを感じるのだった。もの好きで好奇心旺盛な僕は、その時、ひらめいたのだった。静かにすればするほど、その動きを感じるのだから、、、

「座ってみよう!」

それが初めての瞑想の体験だった。完全に我流で、どこかで見た様な瞑想座禅のポーズで座ってみた。すると、その時計回りの螺旋の動きは、俄然、活発化した。普段は、僕たちが動く時は、脳が命令して筋肉を動かして、何かの目的を達成する事が多い。しかし、その時は、自分の意思はおろか、筋肉さえも使わずに、背骨の一番下辺りから、込み上げるエネルギーを源に動いている感じだった。その螺旋のくねりは、座っていられないほど強烈な動きで、上からみると必ず時計回りだった。そして、反時計回りには絶対に動かないのも不思議で仕方なかった。不思議な体験に、僕は無邪気に歓喜していた。



 ガンジス川のほとり
早朝の瞑想者


クンダリーニとは。
数日後、書店に駆け込んで、ヨガや精神世界の本を探してみた。入門書には全く興味が涌かず、ヨガとチャクラの難解な専門書を買ってみた。

その本を読み進めるうちに、探していた一行が見つかったのだった。
ーーー生命の根源エネルギーとも言える「クンダリーニ」は、蛇の形をして、背骨の付け根に時計回りにとぐろを巻いて、普段は眠っている、、、、ーーー

「なんと、時計回りと書いてあるではないか????」


 よく見ると、ミラノのドゥオモ大聖堂の丸い天窓に、
三つ巴にも似た、「時計回り」にまわる勾玉風のデザインを見つけた。
この広場を通る度に、つい気になって、魅入ってしまう。

ただ、クンダリーニは鍛錬をして、少しづつ目を覚ますエネルギーであると書いてあった。嬉々として、友人達に自分の体験を語ってみた。みんな面白おかしく「相変わらず、変わり者だなあ」と呆れた感じで話を聞いてくれた。そんな中で一人だけ、「その話、私の瞑想の先生に聞いてみるわ」と言ってくれた友人がいたのだった。

そして、瞑想の師曰く、「その彼をすぐに連れていらっしゃい」との事。僕も自分の疑問解決の為、すぐに瞑想の師に会いに行き、早速、瞑想を習う事に。

そこで習った数々の教えと、初期段階で正しい方向に導いてくれた事には、未だに感謝している。師によると、僕の場合、その時計回りの動きは軸を失って、全横方向にブレまくっているので、クンダリーニのエネルギーに「酔っている」状態なのではないかと言う事だった。クンダリーニ覚醒によるエネルギーは、時計回りなのは正解なのだけれども、その動きは、目に見えないくらいに微細であるべきで、しかも天と地に向かって、もっと縦方向に伸びる様なものでなくてはならないとの事だった。

「書き言葉」と「話し言葉」の教え
ところで、密教と言うのは、相手のレベルによって、教えや話のレベルを変化させて、「口伝え」を重視する教えだ。だから、レベルに合わない書物や教えも、遠ざけなければならない。だから、秘密な部分もあるわけだ。レベルの低い人が、レベルの高い教えを無闇に読んだりすると勘違いを起こす可能性が高いと言うのが密教の「話し言葉」を重視するロジックだ。

僕が試しに通ってみたインドヨガ道場は、初心者の僕にも呼吸法やアクロバティックなポーズをシステマチックに教えてくれた。指導者に長い経験も必要なく、要するに、マニュアルのヨガポーズのパターンを、養成コースの短い時間で習得して、教えてくれていたのだ。このマニュアル文化は「書き言葉」を重視しているロジックと言えるだろう。

その時計回りの螺旋のくねりの動きに関しては、そのマンハッタンのインドヨガ道場の先生達にも質問してみた。しかし、彼らのレッスンの後に、その動きを感じたのにも関わらず、誰も納得のいく答えをくれなかった。本当はカラダ全体を少しづつ覚醒していく必要があるのに、いきなり高度な技を教えてもらい、しかも簡単に習得してしまったために、クンダリーニの一部がバランス悪く、一時的に目覚めたと言う事だろう。

瞑想の師によると、そのまま、時計回りの動きを無闇に楽しんでいたら、心身のバランスを崩していただろうという話だった。振り返ると、その頃の僕は、線が細いまま、感性が尖ってしまっていて、なんとも脆い感じだったのだ。それからと言うもの、自身のアンテナの先は針の様にとんがっていても、円錐の様に底はどっしりとした安定感になるように、地に足が着いたスピリチュアルな感性を鍛える訓練をしていく事とした。早い段階で、方向性を改める事ができてラッキーなケースだったと言えるだろう。

ヨガや瞑想も侮れない。十分にその教えの深さを理解していないと、良い方向にも悪い方向にも作用するだろう。そして、「書き言葉」のロジックの危険性を思い知ったのだった。初心者にもマニュアル通りに高度なテクニックを教えてくれたのが、僕を必要以上に刺激したのだ。「書き言葉」では、すべてを説明する事はできない。そして、書物やマニュアル、単純化したメソッドから勉強するだけでは、絶対に習得できないモノもある。無限の方向性とレベルが考えられるヨガや瞑想などは、師について「話し言葉」のロジックの「口伝え」を通して、学ぶべきだと思うのだ。

ミラノで、とぐろを巻く蛇のデザインを見つけた。自分のカラダが内包していた動きが、 見事にシンボル化されているのだから、初めて気がついた時は、本当に驚いたものだ。救急車には「アクレピオスの杖」、薬局には「ヒュギエイアの杯」と言う ギリシャ神話に由来するシンボルが描かれているのだ。ギリシャ神話でも、螺旋の蛇のくねりは、「生命の源」と理解されていたのだと、僕は確信している。いにしえの英知が、身近なところに描かれていて、僕は観る度にハッピーになる。日本でも、「アクレピオスの杖」が描かれた救急車があるようだ。救急車を見かけた時は、是非とも注目してみて欲しい。



ギリシャ神話に登場する名医アクレピオスは、蛇が絡まった杖を持っていたと言う。
 「アクレピオスの杖」は医学のシンボルとして、
WHO(世界保健機関)、軍医や衛生兵、そして、各国の救急車などに使われている。
西洋でも東洋でも、生命の源のイメージが似ていると言えるのではないか?
僕のカラダにも内包されていた螺旋の動きが、
ミラノ市街を走る救急車に描かれていたのだ。



  ギリシャ神話で、ヒュギエイアは名医アクレピオスの娘。
彼女が持っていたのが「ヒュギエイアの杯」。
こちらは薬学のシンボル。
ヨーロッパの薬局の看板などに良く使われている。


地球とコリオリ。
螺旋のくねりの動きが、決まって時計回りだったのは、地球の自転が体に影響を与えているのではないかと、僕は勝手に結論づけている。

ところで、我々が日々使っている「時計」が、右回りなのは、北半球の日時計の動きに由来する。南半球では、日時計の影は左回りに回るのだ。我々が毎日使っている時計が右回りなのは、時計が北半球で起こった文化だからだ。

それとも関係があるのだが、「コリオリ」と呼ばれる物理の法則に、自分の体が反応していたのではないかと思うのだ。例えば、水瓶に水を張って底に穴を開けると、北半球では、水は反時計回りに回りながらに落ちていく。対して、南半球では、その逆に時計回りで落ちて行き、赤道直下では水は回ることなく落ちて行く。

そんな水の動きにも見られる様に、重力には、多少なりとも回転がかかっているのだ。「空」を体験すると、その重力の微細な回転を感じて、カラダがバランスを取るのではないだろうか?それをクンダリーニエネルギーと呼んでいるのだろう。

だから、もし、インド文明が南半球で起こったなら、クンダリーニは反時計回りに蛇がとぐろを巻いていたと解釈されていた可能性もある。


瞑想で束ねられるカラダ、キモチ、アタマ。 
そして、僕の少ない経験と理解の範囲では、ヨガのエキササイズでのカラダのチューニングが、瞑想の方向性を決定づけている。僕の瞑想は、体を駆け巡るエネルギーを注視しているだけで、その情報があまりに多く、アタマからの雑念が浮かばないと言うタイプだ。ヨガでカラダを動かしていない時期は、瞑想もうまくできない。

自分を「アタマ」、「キモチ」、「カラダ」と、三つのパートに分けて考えて見る。僕は何かに迷った時は、「アタマ」の論理や「キモチ」の情動よりも、「カラダ」の情報に委ねる事にしている。もし、「アタマ」からの情報に従って動くと、経験上、低次元なスパイラルにはまっている自分にもがく事になる。理想としては、「カラダ」からの饒舌な情報に、まずは「キモチ」を、そして「アタマ」を順応させていく感じだ。

単純化しすぎかもしれないが、「カラダ」と「キモチ」と「アタマ」を一体化する事が、すなわち幸福の原点なのではないかと感じている。そして、僕の場合は、それらを一体化して束ねる作業が、何を隠そう瞑想なのである。

個人的にも社会的にも様々な場面で、我々は、「カラダ」や「キモチ」から切り離した、「アタマ」の情報で決断している事も多いだろう。そして、その「アタマ」からの情報は、世をスピード感をもって発展させる事ができても、それを歪んだ形に発展させている原因ではないかと、僕は思っている。


突然、柔らかくなったカラダ
あと、もう一つ関連する事で、面白い出来事があった。僕は学生時代から、ダンサーの写真をずいぶんと撮影した経験がある。ある時、ダンスの舞台を撮るだけではなくて、、、自分も振り付けに関わりながら写真撮影をした事があった。要するにダンスの舞台などを客観的に撮影するだけではなくて、僕も積極的に振り付けの指示をだして、撮影のためにダンスしてもらったのだ。撮影しているうちに、ダンサーとの息も完全にシンクロしていく。自分が踊っているかのような錯覚を覚えたりした。


彼が踊ると、なぜだか劇場全体の空気が揺れた。

不思議だったのは、その撮影の日を境に、僕の体が糸人形の糸が切れたように急に柔らかくなったのだった。日頃からヨガを欠かさない生活をしていたので、自分のカラダの硬さは熟知していた。どんなポーズがどれくらい出来て、どんなポーズがどれくらい出来ないかは、カラダで覚えていたはずなのに、ある日突然、床にべったりとカラダを沿う事ができるぐらいに、柔らかくなってしまったわけだ。

多分、僕らの生活は必要以上に、アタマが限界を作ってしまっているのではないだろうか?「人生はこんなもんだ」、「人間の能力はこんなもんだ」、、、普段は色々な限界の壁を作って生きているのに、あの時は、その限界の壁を、撮影を通して超えてしまったのだろう。僕は、時に妙に素直な部分があるからか、ある意味では勘違いなのだが、撮影時にダンサーと一体化してしまい、アタマが作っていた限界の糸を、ぷっつりと切ってしまったのだろう。僕らのカラダが硬いのは、筋や腱などのカラダの細部が硬いだけでなく、アタマが硬い事の証拠に他ならないのだ。

僕らが、スポーツやダンスや音楽などのパフォーマンスを見て、うっとりするのは、そんな限界を少しでも超えようとする、彼らの集中力に感動しているのかもしれない。。。スポーツやコンサートを観る事によって、勘違いでもアスリートやパフォーマーになりきる事で何か、アタマの限界を破ってくれそうな気がするから、僕らは、繰り返し彼らを見に行くのではないだろうか。

糸人形の限界の糸をもっと切って、人生のステップを自由に踏みつづけたいと思う。アタマで作られた限界を、自分に押し付けない限り、カラダは、元来とても饒舌なものなのだもっと、その声に耳を傾けるべきではないか?ただ、重要なのは、カラダの奥から込み上げてくる様な溢れるエネルギーほど大切なモノはないのに、決してそのパワーに酔ってしまってはいけないのだ。このバランスは、様々な場面に応用できるような気がしている。