Sunday, August 15, 2010

エルサレムの聖マリア

20代、許す限り旅をした。数ある訪れた場所の中で二カ所、また必ず戻ってきたいと強い縁を感じた場所があった。一つがイタリア。思った通りに、戻ってくる事ができた。それどころか、現在こうして住んでいる。

もう一つの場所は、イスラエルだった。十年以上前に一度訪れたきり、再訪の機会は、まだない。

 [徴兵前の抱擁]

イスラエル行きを決めたのは、知的好奇心からだった。多くの戦争の火種が、そこから来る。なぜ、イスラエルなのか?そんな漠然とした疑問があったのだ。

まずは、飛行機の窓から見えるエジプト領の紅海沿いのシャルマシェイク空港に驚いた。滑走路が見えなかったからだ。砂漠に直接降りて行くように見えたのだ。徐々に飛行機が高度を下げて、着陸しようとすると飛行機の風が砂を舞い上げて、滑走路が顔を出した。滑走路がうっすらと、砂に覆われていたのだった。

[行き来する車は、みんなの交通機関となる]

エデンの園があってもおかしくないと思わせる場所

そこからはエジプト人のトラックの荷台や、行き来する乗用車に乗せてもらって、ゆっくりと北上した。紅海沿いのビーチのいくつかに滞在しながら、私は旧約聖書を読んだ。
神が六日間で地球を作って七日目に休んだ話や、アダムとイブが蛇にそそのかされて禁断の木の実「リンゴ」を食べて楽園を追われてしまった話など、都会で読んだなら、おとぎの世界のような話が、紅海に浸りながら読むと現実感のあるものとなった。砂漠と紅海には、普段の論理的な思考をさえぎる様な雰囲気があった。人の少ない紅海沿いのビーチの向こう側に、エデンの楽園があっても、決しておかしくないとさえ思ってしまった程だった。そして、うむも言わせない強い存在、言うなれば「神」が存在しているような空気があるのだ。

地中海は一神教生誕の地。砂漠の自然は厳しい。アラブ語もヘブライ語も、人々はノドをかき鳴らして話す。風にかき消されて、自分の声さえ響かないような場所なのだ。アジアの様に、観察したり触ったり、跳ね返って来る自分の声で、相対的に自分の存在と位置を確認できる豊かな優しい自然とはまったく異なる。砂漠では自分の存在や位置を確認したり、次に行く場所を決める時、空をあおぐしかないのだ。それが、概念としての「神」を必要としたと言う説があるようだが、おおまか納得できる。

人生最高のキブツの食事、誰もが欲しがる土地

更に北上して、エジプトからイスラエルに入った。モーゼに導かれたユダヤの民も似た道筋を通ったのかもしれない。まずは、死海の近くのキブツに泊まる事にした。塩分のせいで体が浮く事で有名な死海も体験してみたかったからだ。キブツとはイスラエル各地に、ユダヤ人が形作った自給自足コミュニティーの事である。いわゆる共産主義が、完璧に機能している。リーダーは持回り制で、それぞれは、土地財産などの所有物をほとんど持たない。なにより一人一人の教育レベルが高く、意識的に農作業などの仕事に励むのだそうだ。子供たちは、行きたければアメリカの大学に行く事もできるし、コミュニティーが支援する。なのに将来、コミュニティーに帰ってくる必要もないのだそうだ。いわゆる宗教的なコミュニケティーでもない。共産主義は、コミュニティーが小さくて、個々の目的意識が高い時には、機能するものらしい。

そして、その死海のほとりのキブツの食堂で食べた食事は、今までの人生で食べたものの中で、最も美味しいものだった。私は感動しすぎて、泣きそうになった。その食事は、パン、ヨーグルト、野菜サラダ、卵焼き、肉のグリル、果物のような至ってシンプルなものだったが、何かが特別だった。地球のエネルギーが、ダイレクトに体に入って来て、体中の細胞のすべてがビックリして目を覚ましたようだった。

キブツのメンバーと一緒に、死海にも行ってみた。老若男女がケラケラ屈託なく笑いながら泥を塗り合っていた。海水の10倍の塩分を含むという塩湖に体を浮かべてみた。心身ともに、生き返った気がしてきた。食事といい、死海といい、それ以上のものは、何も必要と感じないであろう。私は体の芯から、満ち足りてしまった。英語で「The Promised Land(約束の地)」と言えば、イスラエルの事を指す。私は、そこが特別な場所だと、確かに体で感じた。こんなに特別な場所なら、誰もがこの土地を欲しがって、戦争するのも不思議はない。。。戦争の火種は、そんな土地の特別な磁気から来るのかもしれない。とにかく、とてつもない土地の恵みを感じた。他のどこの場所でも、こんな感覚は感じた事はなかった。

[階段の踊り場で祈る修道僧]

エルサレムでの神秘体験、聖マリアとの出会い

南の砂漠地帯、北の森林地帯、イスラエル各地を色々と回った。しかし、イスラエルの旅のメインイベントはエルサレムへの巡礼だろう。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の巡礼地であり、戦争や人類の歴史の舞台の中心地である。宗教的には完全にニュートラルだった私は知的好奇心で、各巡礼地を普通に見物するつもりだった。。。

イエスキリストが十字架に掛けられたゴルゴダの丘があったされる場所には、聖墳墓教会というキリスト教の聖堂がある。何世紀にも渡って、ローマカトリック、ギリシャ正教会など6つの教派により共同管理されていると言う。有名な教会のわりには、入り口が極端に小さかった。それは、教会を守ると言うのが、命がけだった証拠でもある。

聖堂の右の階段を上がった所が昔のゴルゴダの丘にあたり、そこにも小部屋があり聖マリア像があった。細かな記憶が曖昧なのだが、その部屋にいた正教会系の神父と、短い会話を交した後、確か聖マリア像のちかくに座った。そして、私は、何の前触れもなく突然泣き崩れたのだった。五分泣いていたのか、一時間泣いていたのかも、分からない。まったく時間の感覚が麻痺していたからだ。泣くと言っても、シクシクと涙がこぼれると言う泣き方ではなくて、声をだして激しく嗚咽していた。そして、どこからともなく無限の白い光がやってきて、優しく私を包んだ。その白い光の存在は、とてつもなく暖かい愛のエネルギーだった。私は今まで一人で旅してきたと思っていたのだが、それが完全な誤りだった事に気がついた。その存在は、常に私と共にいてくれていたのだ。そして、すべてが許されることも知った。あれ以前にも以後にも、あの時の様な100%の幸福感を感じた事はない。その白い光は、空に浮かぶ白い雲のようにフワフワしていて、360度すべての角度から、まるごと私の体をすっぽりと包んでくれた。嗚咽している間も、巡礼者や観光客がひっきりなしに、その部屋に入ってきたり出て行ったりしていた。観光地の教会というのは、人がたくさんいて騒々しく、清々しい雰囲気などないものだが、そこも例外ではなかった。私は目をつぶっていたわけではないので、そんなザワザワした人々の動きを涙越しに見ながら、平行して同時に、その無限の白い光を見ていた。自分が、矛盾なく、連続した二つのパラレルな世界に存在していた。

私は、探し求めていたわけでもないのに、いきなりそんな神秘体験をしてしまったわけだ。聖マリア像の近くに座っていたせいか、その暖かく無限の白い光の存在を聖マリアだと思うようになった。その体験以降、その白い光の存在だけには従順でありたいと思うようになった。例え、地球上のすべてのものに反抗したとしても。。。

[第三の目のチャクラが発光し、目に涙をためているようにも見える聖マリア像]

嗚咽の後、帰り際に私は、聖マリア像の写真を撮ったようだ。ニューヨークの自宅で白黒フィルムのネガを現像して、また驚かされた。その彫像が生きているような表情をしていて、しかもうっすらと涙を浮かべているように見えたからだ。「マリア様も泣いているではないか?」更に額の第三の目の所が、なぜか発光していて観音像のようにも見えた。私は写真を撮った時には、その額の光には気がつかなかった。実際、そんな光はあったのだろうか?
まあ、ろうそくか、なにかの光が反射したに違いない。ただ、二つの光が聖マリア像の両方の目に反射して、涙をためているような表情を演出し、もう一つの光が観音像のように額の第三の目のところで、ばっちり反射していた。そんな三つの光の完璧な偶然が起こるのは、とても稀な事だ。そんな偶然が、この写真の不思議な雰囲気を醸し出していた。

今では、この偶然が必然だったと解釈する事にしている。そして、あの白い光は普遍的な女神の愛の現れだと思うのだ。あの白い光を、仏教徒とは観音様と呼び、キリスト者は聖マリアと呼び分けているのではないか?東洋でも西洋でも、古代から同じ様に女神のエネルギーが降り注いできたに違いない。この写真には、西洋の聖マリアの向こうに東洋の観音様が透けてみえていると言うのが、自分なりの結論としている。
そして、現在、ヨーロッパに在住している事もあり、なんらかの形で東洋と西洋の橋渡しを担いたいと思う様にもなった。

今なら、軽く話せるのだが、当時は一年以上も私は誰にも、その神秘体験の一部始終を語る事はなかった。どう語って良いか分からなかったからだ。

旅が、人の人生を変える事もある。どう変わるかは予測できない。イスラエルへの旅行の後、世界中の宗教の比較や、仏教の密教を勉強してみたり、ヨガ、瞑想などを実践してみたりした。しかし、あの白い光の存在が、すべての私の行動の規範となっていた。堅苦しい事はなにもない。すべては許されるのだから。ただ、あの存在を裏切る事はできない。それだけは絶対な事となってしまった。そして、神秘体験から約十年後、私はカトリックの洗礼を受ける事となった。

次にイスラエルに行くとしたら、知的好奇心だけでなく、カトリック信者としても巡礼に行く事になるだろう。前回のように自由な身で行くのも楽しいだろうが、、、今の様に、自分の立ち位置がはっきりした上で見てみると、もっと深い事が分かるかもしれない。自分の信じている宗教が他よりも優れているなどと偏狭な想いを持たない限り、まだまだ面白い情報が入って来ると信じている。

戦争の火種がある場所だからこそ、「許しのテーマ」を背負って、キリストが、かの地で登場したのかもしれない。ただ、そのテーマを人々が理解したとは言い難い。

Monday, March 22, 2010

ミラノのマドニーナとの出会い

 
[ミラノの中心のドゥオモ広場]

マドニーナとは

ヨーロッパの冬は暗く長い。住み始めて初めて知ったのだが、“太陽の国”と思われているイタリアも例外ではなかった。イタリアの文化は冬に育み、夏に開花する。華やかさと深みが両立する、ここの文化の秘密だ。
イタリアの街の中心には、必ず「ドゥオモ」と呼ばれる教会あり広場がある。まず、中心を定めて、そこから放射状に道を配置するのが、イタリアの街の作り方のセオリーである。ミラノのドゥオモ教会はマリア様に捧げられ、その突端では黄金に輝くマリア様が街を見下ろし、いつも見守っている。ミラネーゼ達は、 この街の守護聖人である聖母マリアを「マドニーナ」と呼び親しんでいる。

2002年の冬のある日、私は道端で写真用の三脚を見つけた。なかなか大きくて丈夫なプロ用のものだった。人通りの多いその歩道に横たわる三脚の周りを、歩行者達が避ける様に歩いていた。それは不思議な光景だった。こんな大きなものを道端に忘れるとは、どういう事だろう。そのフォトグラファーは、撮影の後、よほどの急ぎの予定があったに違いない。一週間前から約束していた親戚とのディナー、もしくは新しい恋人とのオペラ鑑賞の約束だったのかもしれない。
人通りの多いその歩道で、その三脚は明らかに邪魔な存在で、歩行者達の障害になっていた。立ち止って一瞬ためらったものの、私はその三脚を拾う事にした。
その日、私はファッションショー関連の撮影の仕事をしていた。毎年2月に行われるレディースのミラノ・コレクションの時期だったからだ。連日の仕事で神経を多少すり減らしていたものの、スポーツをした後の心地の良い疲労感のような感触もあった。そし て、その三脚を片手にボーッっと何も考えずに歩いていた。

はからずも揃った機材

ミラノの中心のドゥオモ広場にさしかかった時、その日が満月である事に気がついた。そして、広場の真ん中ぐらいに来た時に、その満月がドゥオモ教会の突端にある金色のマリア様の真後ろにあって、後光を差しているように見えた。しばらく、あっけに取られて、ただ見ていた。しばらくすると、雲がマリア様の周りを避ける様に動きはじめていた。マリア様のオーラが雲をコントロールしているようだった。

ふと我にかえった。ファッションショーの為に使っていたカメラにはすでに望遠レンズがついていた。フィルムも高感度のものが入れてあった。しかし、夜の風景は光量が低く、8分の1秒か、もっと遅いシャッタースピードで切らなくてならない。望遠レンズとの組み合わせだと大きく手ブレが出てしまって良い写真にならない。 ファッションショーの仕事では邪魔になるので私は三脚を使わないのだが、その日は、直前に偶然手に入れた三脚があった。はからずも、拾った三脚のおかげで、機材はすべてそろっていたのだ。 

 [2002年の冬に撮影した、ドゥオモ教会のマドニーナ]

拾ったばかりだったので、まだ慣れない三脚だったが、慌ててそれを広げて、その上にカメラをのせた。この三脚のおかげで、手ブレが防げたわけだ。ファインダー越しに見るマリア様は,とてつもない無限のエネルギーを発散していた。カメラを覗いていると、雲の動く速度は普通に目で見るよりも、とても早いのが分かった。
満月の月の光が、雲に反射して、その力を増幅させていた。みるみるうちに、マリア様が放つオーラをかたどる様に、そこだけ雲が裂けていった。見事にマリア様のオーラを月光と雲が表現していた。もしくは、月、光、雲、空気などがマリア様への尊敬の念をあらわにして いたようなようにも受け取れた。仏教画で言う後光と、キリスト教美術で言う聖人頭部の正円のアイデアを混ぜた様だった。映画の特殊効果の様な光景が、現実の目の前で繰り広げられていた。
ミラノのゴシック様式のドゥオモには、金色のマリア様が中央の突端に、その他の多数の聖人たちの彫像が、その周りにある。その聖人達が、マリア様の言葉を静かに聞き入っている様に見えた。マリア様のメッセージを一言一句、全身全霊で彼らは受け止めていた。
「そうか、マリア様は他の聖人達よりも一つ高い位置にいる」
マリア様はドラマチックに女性エネルギーを顕現させ、世の中を慈悲の心で包んでいた。私も聖人達同様、試しにマリア様の言葉に聞き入ってみた。
ファインダーを、息をのむ様に丁寧に覗き込み、自分の心臓の鼓動を押さえ込みながら、シャッターをたくさん切った。しばらくして、マリア様は何かを言い終わって、自分の気配を、いつも通りに戻した。そして、あっという間に厚い雲が満月を覆ってしまった。マリア 様の後光も消えて、いつも通りの風景に戻った。ほんの数分のスペクタクルだった。
マリア様が話していて、周りの聖人達が、それを熱心に聞いていた所までは理解できたのだが、マリア様が何について語っていたのかまでは分からなかった。私はマリア様の言葉を理解する能力が決定的に欠けていたからだ。何か大事な事を言っているのに、言語能力のせいで理解できないのは、なんとももどかしかった。マリア様の言葉を、もっと理解したいと思ったのは、その時からだった。

偶然居合わせた二人のミラネーゼ

ふと、目をカメラから上げると、たくさんのミラネーゼ達が足早にどこかに向かっていた。夜の7時半くらいだった。ドゥオモ広場には、家路に急ぐ人や、食前酒を飲みに行く人もいたことだろう。群衆はいつもの様に忙しくしていた。このドラマチックなシーンを見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。2人とも、私の近くにいた。そこが広場の中でも最も良く 見えた地点だったからだ。
私たちは目を合わして、「 Bellisima!見ましたか?」「 Incredibile!こんな不思議な光景、初めて見ました」などと言って、その信じがたい出来事について興奮して話した。彼らは、その体験を共有した仲間だった。もし、写真がよく撮れていたら、是非連絡をくれないかと、その初老の紳士達は、二人とも彼らの名刺を私に手渡した。
それは、小さな奇跡、大いなるものからのメッセージとでも呼ぶべきなのだろうか。それ以来、ミラノのドゥオモのマドニーナを見上げる度に、感謝を含んだ謙虚な気持ちが沸き起こるようになってきた。 

その数ヵ月後、カフェのテーブルで友人達と私が撮りためていた作品を見ていた時に、その場に居合わせた1人から「ミラノの冬の夜の風景で写真展をやらない か?」と持ちかけられた。その頃、私はミラノに来てまだ日が浅く、自分の住む街に敬意を表し、自己紹介の挨拶のつもりで、その話にすぐ乗る事にした。
ミラノの冬は湿気が多く霧がちで、光が空気の中をゆっくりと進む。ひたすら夏と海が好きなイタリア人たちは、 ミラノの厳しい冬に文句を言うのが定番なのだが、私はそんな冬の光を眺めながら歩くのが大好きだったのだ。ミラノの夜の風景がテーマなので、当然ながらマリア様の写真も、その一つとして飾る事にした。
ドゥオモ広場で一緒にスペクタクルを見ていた二人にも招待状を送った。マリア様の良い写真が撮れていたら、個人的に連絡を取ろうと思っていたのだが、偶然にも展覧会に招待できる運びとなってしまったのだ。
彼らは二人とも初日のオープニングパーティーがはじまる時間の前に、すでに会場に現れて、あの写真はどこだ?とまっ すぐにマリア様の写真の前に歩いていった。数ヵ月たったのに、まだ全く興奮が冷めていない様子だった。すぐに写真を買うことに決めてくれて、オープニングを待たずに、お買い上げの赤丸がついた。彼らは、あの写真が合成写真でもデジタル加工したものでもないことを証明する証人でもある。

写真にまつわる小さな奇跡

私の小さな奇跡的な出来事と写真を人に分かってもらいたいとは思うものの、これらの事は分かる人には分かるし、分からない人には分からないものらしい。合成写真と思う人は、そう思えばいいし、写真にまつわる奇跡を信じ られない人がいても、それは私にはどうにもできない。しかし、私には人の評価などはどうでも良い事に思えた。マリア様とのコンタクトの方に、気がとられていたからもしれない。
ある友人は、「仏教とキリスト教が高い位置で交差しているように思えた」という感想をくれたし、別の友人は「マリア様のメッセージを聖人達が聞いているんだね?」と言ってくれた。むしろ、驚いたのだが、分かる人には的確に伝わっていたのだ。
イタリアのメジャー新聞の一つである「リパブリカ」に写真評論家が、とても良い論評を書いてくれた。「un giapponese:sotto la luna di Milano」(ミラノの月の下の日本人)というタイトルでミラネーゼ達が見落としているミラノの美しさを日本人が見つけてくれたという内容だった。私にとって、イタリアで最初の写真展は盛況に終わった。

[忙しく行き交うミラネーゼ達] 

落とし物、メッセージ

しかし、あの三脚は誰が忘れたものなのだろうか?三脚が道端に落ちている風景を私は、あれ以来見た事がない。あの三脚がなければ、写真が撮れなかっただけに、あの落とし物の価値が、私の心に迫ってくる。
「マリア様は一体何を伝えようとしていたのだろう?」
メッセージを発していたのに、私はその言葉を解する事ができなかった。どうやって、彼女の言語を覚えれば良いのだろうか?
とりあえず、マリア様に感謝の気持ちを伝えてみた。そんな私の小さな試みが、信仰という人類の壮大な試みにつながって行くのかもしれない。なんといっても今では、そんな私の妄想が、帰依の心を作り出し、人生の支えとなってしまったのだから。
あの日、あの光景を見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。夕方のドゥオモ広場にはたくさんの人が行き来しているのに。私たちが普段、気がつかないだけで、あんな光景が毎日どこかで繰り広げられているのかもしれない。


Friday, January 8, 2010

フォトショップ、エストニア、父の愛情、HELEMAIの笑顔


 F.I.Tのフォトショップのクラス

HELEMAI は、NY在住のジュエリーデザイナーで画家。F.I.T.(ニューヨーク州立ファッション工科大学)のフォトショップのクラスの同級生だった。

1990年代の中頃、フォトショップで画像を加工しても、高画質に印刷する技術がなかった。印刷できないのだから、作品をつくる必要のあるアートスクールの生徒には役に立たない。しかし、そこには未来に対する投資という意味合いがあった。

ニューヨークの若者はそう言った意味での「未来」にとても敏感だったように思う。例えば、 隣のHTMLのクラスでは、ヴィジュアル的に複雑で、とても見栄えの良い、しかも電話線接続では、見られないような「重い」サイトをつくっている学生がいた。その当時、インターネットの接続は電話線接続以外になかった。要するに「重すぎて」、見られない。意味をなさないサイトだった。今考えると、彼らは、未来のためにサイトを作っていたようなものだ。

私たちのフォトショップのクラスでは、SyQuest とか言う44MBのVHSビデオカセットのような巨大なメモリーカセットを持参するのが必須だった。今では、あのメモリーカセットの百分の一ぐらいの大きさのUSBメモリースティックの中に、数千倍の情報を書き込む事もできるだろう。コンピューター関連の時代の進歩は本当にめざましい。

[ヴェネチアンマントを羽織るHELEMAI]

エストニアという国

フォトショップのクラスで隣に座っていたHELEMAIは、自分の絵画の作品をスキャンして、ケラケラ笑いながら画像加工を楽しんでいた。それがまた、常に芸術的に形になっていたのが印象的だった。

F.I.T.には、クラス以外の時間でもコンピュータールームにアクセスできるシステムがあって、まだ自分のコンピューターを持っていなかった私たちは、フォトショップの勉強がてら、よく遊びに行ったものだ。

ある日、コンピュータールームが閉まる時間になって追い出された後、HELEMAIと話しながら地下鉄の駅に向かっていた時に、彼女は自分がエストニア人だと教えてくれた。私は「エストニア?」と聞き返した。聞いた事もない国だったからだ。彼女は、 「フィンランドの隣の国なの」と答えた。

 「フィンランドの隣にそんな国があったっけ???」と私は地理の授業を思い出そうとしたが、なにも思い出せなかった。それもそのはず、そんな国は私の教科書には書いていなかったからだ。

「旧ソビエト連邦」と言ってくれればすぐにわかったのだが、彼女は、感情的に、そうは言いたくない事情があったのだ。サンクトペテルブルグの美術学校を卒業した後、1980年代後半に、幼児の美術教師としてアメリカに招かれた。ソビエト人として、アメリカに入国したわけだが、政情不安定な国の出身者の為の特別ビサで、アメリカ滞在の延長が許された。共産圏からアメリカに来るのはとても難しい時代だったが、芸術家としての自由を求めて、色々な手を尽くした。もちろん、ソビエト人がアメリカに滞在する方法など、どこにも書いていなかった。ソビエト併合以前のいわゆる旧エストニア人同士が助け合って、耳で聞いた情報だけを頼りに手探り状態な生活だったと言う。

エストニアは最初にソビエトから独立しようとしていた国だった。元々、言語も民族も文化も、ロシアよりもフィンランドに近く、知的レベルも高い国だったそうだ。タリン音楽祭で国家独立を示唆する歌を大合唱して、それから独立運動がはじまった。禁止されている歌を歌う事が彼らの意思を表していた。6万人で歌えば、ソビエト警察も全員を逮捕するわけにはいかない。歌う事が、エストニア人が得た最初の自由だった。 ソビエト政府の暴力的な武力に対して、エストニア人の独立運動は「歌う革命」と呼ばれた。しかし、その独立運動が、ソビエト政府を逆なでしてしまい、1991年、ソビエトが本格的な軍隊を引き連れて、エストニアを占拠した。そしてすべての独立運動もソビエト軍の圧倒的な武力によって鎮圧された。札幌市の人口よりも少ないエストニア人135万人の独立運動を根こそぎにつぶす事など、アメリカと武力を争っていたソビエトにとってみれば簡単な事だった。

父の愛情

その混乱の中、HLEMAIの父は、彼女に電話連絡をしてきた。「絶対にこの国には帰ってこないように。以前の様に、またロシア人によって、すべての自由が奪われてしまった。もう一生、会えないかもしれない。でも、お前はアメリカに留まるんだぞ!」彼女は初めて父の泣き崩れる声を聞いたと言う。

そして、しばらくしてゴルバチョフの行方が分からなくなり、その数日後には突然ソビエト連邦が崩壊した。 後になって考えてみると、エストニア占拠も、ソビエト崩壊途上の軍の最後の悪あがきだったとわかった。結果、エストニアが国の独立を勝ち取ったわけだ。HELEMAIの話で、「国が崩壊したり、独立を勝ち取ったりする」生の声を初めて聞いた。それはニュースや歴史の話ではなくて、一人一人の人間のストーリーに大きく影響するものなのだ。

コンピュータールームから地下鉄の駅に向かう途中、彼女が私に「エストニア人」だと名乗った時、彼女の脳裏には様々な事がよぎっていたはずだ。元ソビエト人の彼女は、今でもロシア語が聞こえてきても、知らない振りをするのだと言う。それほどに、ロシア人と一緒にして欲しくないという想いが強いのだ。

笑顔とは

HELEMAIがニューヨークからミラノに遊びにきた時、ミラノ唯一のデパート、リナシェンテのジュエリーコーナーで、偶然の彼女の作品を見つけた。一階の香水売り場の隣のジュエリーコーナーをみつけて、吸い寄せられる様に行ってみると、彼女がデザインを担当しているブランドが大きく店を構えていた。「この角のガラスケースの中、全部、私のデザイン」と言ってケラケラ嬉しそうに笑っていた。

彼女がデザインするジュエリーは、世界中で見る事ができるはずだ。アメリカンドリームをつかんだと行っても過言ではない。

ただ、彼女にアメリカンドリームという言葉は似合わない。純粋に普通の幸福を求めて、その時その時を必死に生きて来たような感じなのだ。

HELEMAIは、私に「笑顔」の重要さを教えてくれた。まず、彼女が笑顔を振りまくと、周りまでが笑顔で満たされる。幸福は「心の状態」であって、必要条件などないのだろう。笑顔のコツは、どんな状況でも何らかの幸福を見つければ良いだけなのだそうだ。実践は難しいかもしれないが、聞くだけなら、なんと簡単な事なのだろう!!!

「厳しい人生」と「純粋な笑顔」。HELEMAIに会ってから、その関係性を考えるようになった。

実際、周りを見ていて、純粋な笑顔を持っている人は、他人の痛みを分かる人で、しかも、その痛みを乗り越えてきた様な人に多いと思うのだが、どうだろう。

Tuesday, December 8, 2009

ラヴェルナ山と、歪む時間


お勧めな場所


イタリア在住も10年近くになり、「イタリアで、お勧めな場所は?」などと聞かれることも多くなった。しかし、相手がどんな人なのかによって、答えは相対的に変わってくる。美術鑑賞が好きな人ならフィレンツエを勧めるだろうし、ロマンチックな雰囲気を楽しみたい人ならヴェネツイアなどを勧めるかもしれない。
でも、「イタリアで好きな場所は?」と聞かれれば、私の独断と偏見だけで答えられる。ラヴェルナ山(Monte della Verna)は、そんな私の最もお気に入りの場所の一つだ。

[ラヴェルナ山の修道院の入り口。
聖フランチェスコは小鳥へ説教した事でも有名である ]

聖フランチェスコの聖痕

ラヴェルナ山はイタリア中部、トスカーナ州とウンブリア州の境あたりに あり、その頂きには、フランチェスコ修道会の修道院がある。そこはイタリアの守護聖人、アッシジの聖フランチェスコが40日間の断食をして祈り続けている最中に聖痕を受けた場所として知られている。聖痕とは、キリストと精神的な同一化によって、キリストと同じ場所に傷が現れる現象のことを指す。
私たちの体は外的な要因だけでなく、内的な要因でも傷ついたり、癒されたりもする。とは言っても、この現象は奇跡と言って良いだろう。聖フランチェスコは、当初、その傷を隠していたという。しかし、弟子達によって確認され、語り継がれるようになった。歴史上、最初の聖痕だった。その現象は、聖フランチェスコに限らず、カトリック世界では何度か確認されているものらしい。
[聖痕拝受位置にろうそくが灯る聖痕礼拝]

時差ぼけと、霊気ぼけ


私が初めてラヴェルナ山に向かったとき、その山に近づくに つれて強烈な眠気が襲ってきた。たちの悪い時差ぼけの様な眠気だった。修道院には宿泊施設があり、空き室さえあればいつでも泊めてくれる。眠いのを我慢してチェクインを済ませ、どうにか部屋までたどり着いたのを覚えている。ベッドと机という必要最低限のものしかない修道院の部屋に入るなり、 私は熟睡してしまった。
その数日の間、辺りの山を散策している最中や、教会でミサに参加している間にも眠気が襲ってきて、朝、昼、夜、とにかく部屋に戻っては寝まくってしまった。こんなに寝りこけたのは、あれが最初で最後の経験だ。
いわゆる世界のパワースポットは岩盤地質の所に多い。ラヴェルナ山も切り立った石灰岩の絶壁の上にある。岩盤は地球のエネルギーがダイレクトに伝えるからなのだろうか?修道院の周りにも、岩とその割れ目がたくさんあった。辺り一帯の霊気に、ただならぬものを感じた。
私は、あの眠気は慣れない強い霊気によるものかも知れないと勝手に関連づけている。「時差ぼけ」ならぬ「霊気ぼけ」だったのかもしれない。 「時差ぼけ」とは物理的な高速移動に体がついて行けない時に感じるものであり、「霊気ぼけ」とは高速な次元移動に体がついて行けない時に受ける現象に違いない。
[聖フランチェスコが好んで瞑想したと言われている場所]

山から降りてきて感じた歪む時間

自分の眠気に高尚な理由をつけてしまっているのを自嘲してしまいそうになるのだが、その後、不思議な感覚があった。その眠りこけた修道院滞在から、ミラノに帰ってきて、時間の流れ方が異常に遅くなっているような気がしたのだ。
たとえば、ふと道端で目を上にやると、ちょうど街路樹から葉が落ちる瞬間で、その葉が優雅に舞いながら、ゆっくりと自分の足下まで落ちて行ったのを何気に凝視していた。バールでカフェを飲みながら会話している人達の気持ちがダイレクトに伝わってきて、彼らが笑い 合う数秒前には彼らが笑い合うことを知っていた。
気のせいだと笑われるかもしれないが、なにか時間という得体の知れないものの中にある自分自身を、初めて認識したのだった。

普段は入り込めない瞬間に、自分が巧みにもぐり込んでいた。分かりやすく言うと、目の前のすべてが映画のスローモーションの様に見えるような気がした。
「一瞬が走馬灯のように駆け巡る」とか、「野球の名バッターがバットにボールの縫い目が当たる瞬間を見た」などという眉唾な現象を聞いたことがあるが、その感覚も、あながち嘘ではない、という気もしたのだった。そして、すべての生命体のうごめきが尊いもののように思え、一瞬、一瞬に全身全霊で集中していた。
そして、その瞬間に対する高い集中力のせいで、一日にたくさんの出来事が起きた。というか、たくさんの小さな出来事に気がつくという言い方が正しいのかもしれない。それで時間の流れが、ぐっと遅くなったような気がしたのだ。「今日は、たくさんの出来事があって、刺激的な一日だったなあ」と思って、時計を見てみると、まだ朝の11時だったりした。
ラヴェルナ山初滞在の後、ほんの一週間程であったのだが、このゆったりと流れる時間を楽しんだ。 
[ラヴェルナ山の朝霧の森]

感覚的なカイロスと規則的なクロノス
話は変わるが、ギリシャ哲学では、時間の観念には二種類あり、それぞれクロノスとカイロスと名付けられている。クロノスは、例えば一日を24等分したものを1時間とする時計の針の様な均等に進む時間を指す。カイロスは、感じたままに伸び縮みする歪む時間や、繰り返したり逆流したりできる時間を指す。
ギリシャ哲学では、私たちは「規則的なクロノス」と「感覚的なカイロス」と言う2つの時間の矛盾を抱えたま ま、日々、時間を送っていると説明している。クロノスは地球の自転と公転によって決まるものなので、私たちは従順に従うしかない。一方のカイロスは、私たちの気の持ち様でコントロールできるものなのだ。
[岩肌の苔に、巡礼者が祈りをこめて刻まれた十字]

西洋占星術に造詣の深い友人による と、自由自在に歪むカイロスの時間が、年々加速しているのだそうだ。今までの2000年の間、地球は魚座に支配されていた。それが現在、次の2000年間を司(つかさど)る水瓶座の時代に移行する途中であるらしい。
その移行期には、人類の気分として、カイロスの時間が全体的に加速するのだそうだ。聞いて驚くなかれ、魚座の時代に終わらせなければならない事項が多い為に、駆け込み的に時間が過ぎる現象なのだとか。そして、彼らの暦では2013年には移行が一段落する。その後はカイロスの時間の次元が変化して、減速傾向に転じるだろうと言う説まであるらしい。

「年齢を重ねるごとに、時間が流れるのが早く感じるものだ」と、よく年長者は言うものだ。しかし、ここ数年はそれ以上に速いのではないか?普通なら10年かけて起こるような事が、1年で起こってしまうようなスピード感がある。

私たちは「感覚的なカイロス」の時間を十分にかけられずに、「規則的なクロノス」の時間で年齢を重ねていることにもなる。例えば、40歳前後の男性をターゲットにした雑誌の内容や彼らの消費傾向は、昔で言うところの30歳前後の男性とたいして変わらないのだそうだ。「感覚的カイロス」の時間があまりに加速しているので、我々は成熟する時間さえ足りないということなのだろう。

時間を歪められる唯一の場所

クロノスとカイロスの話も、占星術の話も、本当かどうかは私には分からない。しかし、世の中の変化は確かに早い。早すぎて、よく分からない。世の趨勢(すうせい)を見極めるためにも、時間を減速させてみたい。とにかく、時間は歪むのだ。

そして自分の時間をコントロールしたいとき、ラヴェルナ山を訪れることにしている。そこは私にとって、時間を歪められる唯一の場所だからだ。


Monday, November 30, 2009

香水と肌の関係

Areziaは、ファッション関連のテレビや雑誌のインタビュアーをしている。私もミラコレのバックステージで撮影する事も多いので、そこで頻繁に会う。有名なモデルなどがいたら、同業者同士で譲り合いながら、仕事をこなして行く。
写真を撮る事になり、Areziaが家に招いてくれた。部屋の一角には、たくさんの香水が並んでいた。ボトルがオシャレな有名ファッションブランドの香水 だけでなく、カトリックの修道院が精製した伝統的な香水や、ハーブ屋などで売っているシンプルな香水もあった。香水を集めるのが趣味なのではない。自分に 似合う香水を探しているうちに集まってしまったのだそうだ。
アダムとイブがエデンの楽園を追われて以来、私たちは「裸の自分が恥ずかしい」と思うようになった。Areziaは、「香水をしないで人と会うなんて信じられない」と言う。香水とは、肌から最も近い羞恥心の現れなのだ。

[ファッションブランドの香水だけでなく、修道院が精製する香水や、ハーブ屋のシンプルな香水もあった]

脈打つごとに揮発する香り

香水にはFirst Note、Second Note、Third Noteがあると言うことも、Areziaが教えてくれた。
First Noteとは、つけてすぐに感じる第一印象の香りのこと。香水をつけたときに、気分転換になったり気付けの意味があるそうだ。朝だったら、今日一日頑張ろ う、とか。夕方のお出かけの前なら、気分を昂揚させてくれるような役割がある。ただ、香水を選ぶ時、このFirst Noteにだまされてはいけないのだそうだ。なぜなら、それは10分程のつかの間の恍惚のための香りで、すぐに消えてゆくからだ。
Second Noteとは、つけてから30分後くらいに香る香水本来の香り。香水を選ぶときは、この香りを一応の基準にすると良いらしい。
Third Noteとは、肌に暖められた香水が発する香りの事。最後まで引っ張って長く残る香り。肌と一体となって、それは世界でひとつしかない独特の香りとなる。 実際に香水が香っている時間のほとんどは、このThird Noteとなる。肌の温度や湿度、皮脂量や体の酸度などによっても香水の香り方が変わるという。
そして、手首や首すじにつけると効率がよく香る。なぜなら、静脈が近いせいで、温度が体の他の部分よりも高い からだ。脈が打つたびに香りが空気中に揮発するというわけだ。私の香水に関する知識のすべてはAreziaからの受け売り。「自分で自分の香水の香りが気 になるようでは、その香水は肌に合っていない」というサインなのだそうだ。

[Areziaのヌード]

Third Noteと肌がなじみ、世界でひとつの香りとなる

ヌード撮影はモデルとフォトグラファーの美への挑戦であり、真剣勝負である。決して優雅なものではない。Areziaのヌードを撮っていると、彼女も汗ばんでくる。香水のThird Noteと彼女の肌がなじんで、世界でひとつしかない香りとなる。
マリリンモンローを思い出した。「ベッドでは何を着ているのですか?」と質問したジャーナリストがいたそうだ。「もちろん、Chanel No.5よ」と答えたのは有名な話だ。 
一糸まとわぬ姿になった時でも、香水だけはまとっている。それは、恥じらいを女のプライドに高めてしまっている行為とも言えよう。

Areziaが奇麗な体を惜しげもなく見せてくれるのは、彼女がキチンと香水をつけている女性だからだろう。香水をつけている限り、裸ではないのだ。「カメラの前で服を脱ぐことよりも、服を着ていても香水をつけないで外に出かけることの方が恥ずかしい」と彼女は言う。
総じてヨーロッパの女性が肌を見せることに抵抗がないのは、ここの香水文化のせいなのかもしれない。この季節、街中でも夏服からは日焼けした素肌が覗いている。しかし、それは素肌に見えるだけ。実は彼女たちは、キチンと“香りをまとっている”のだ。

Wednesday, November 25, 2009

水瓶座の時代、Global Brain、2012


[ミラノオデオン座]

私が、初めて2012年のアセンションの事を聞いた時は、まだニューヨークに在住していた。1996年辺りだったと記憶する。何の基礎知識もない私に、当時の瞑想の先生が、唐突に語りはじめたのだった。

「2000年辺りから、たくさんのショックな事が起きるから心配しないように。戦争、自然災害、疫病などで地球が揺さぶられるはず。それで、嘘とか闇があぶり出されるの。2012年の末を境に、地球がアセンション(次元上昇)して、人類の内面レベルが一つあがる。その移行期の前後は、大変かもしれないけれど、あなた達は、その変化を準備する要員になっていくのよ。水瓶座の時代がはじまっていくのを見届けたいわ。。。。。。」

その話は、延々と続いた。その話は私の理解をはるかに超えていたのだが、大真面目に私に何かを伝えようとしていた事だけは覚えている。その後も静かに座る習慣、、、いわゆる瞑想は10年以上も続けているのだが、この「水瓶座の時代の話」の詳細は、忘れてしまった。その瞑想の先生も、もう、この世にはいない。

西洋占星術に詳しい友人に、もう一度、アセンションについて語ってもらった。

例えば、私は「蟹座」である。私が産まれた時間に、太陽に蟹座が入っていた事を意味するそうだ。普段、占星術でよく使う星座とは、太陽星座の事を指す場合が多い。しかし、正確に言うと私の場合、月には乙女座が入り、火星には蟹座、金星には双子座などと、まだまだ細かく私の星座を分析する事になる。本格的な西洋占星術では、「私の星座は蟹座!」などと、一口で言えるものではなく、もっともっと複雑なものなのだ。友人が、私の産まれた日付、時間、場所からバースチャートを作ってくれた時、いろいろと並ぶ数字や、円の図に私は見入った。このそれぞれの星座は、それぞれに性格があり、それがどの星に、どんな角度で入っているかで細かく読み解いて行くのだそうだ。しかし、それも、人を占う占星術でしかない。

[複雑に線が絡み合う私のバースチャート]

西洋占星術は、地球と言う惑星そのものの星回りも計算する事ができる。この西暦0年頃から西暦2012年頃までは地球は魚座の影響を受ける時代だったそうだ。西暦2013年頃から次の約2000年間は水瓶座の時代に入るのだと言う。

マヤ文明のカレンダー、マヤ暦も2012年12月21日で終わるために、終末論のようなものを唱える人も多いらしい。しかし、私が聞いた話では、そんな終末論とは程遠いものだった。

まず、地球と人類の次元上昇によって、人類の意識の革命が起こると言うのだ。例えば、点で1次元を、平面で2次元を、立体で3次元を表す。3次元とはすなわち、私たちが住んでいる世界である。加えて、私たちが自由にコントロールできるのは、この次元まで。それに時間軸を加えて4次元となる。ここまでは簡単に意識できる。さて5次元、6次元とは、どんな世界なのだろうか???アセンションによって、そんな未知の次元が、これからはもっと身近になって行くだろうと言うのが、友人の説だった。「最近、シンクロニシティー(共時性、偶然の一致)や、テレパシー、直感などが、冴えてきてない?」と私に聞くのだった。実は、年々、自分の直感は研ぎすまされてきている様な感覚があった。いわゆる見えない世界の事が「分かる人」と「分からない人」の差も、これから激しく「2極化」して行くらしい。

[十字架がキリスト教のシンボルになったのは4世紀以降。
その前までは魚のマーク(イクトゥス)がシンボルだった ]
http://ja.wikipedia.org/wiki/イクトゥス

魚座の時代(西暦0前後ー西暦2012前後)は物質文明に加えて、精神文明が深まって行った時代であった。「愛、許し、献身」に人類が気がついた時代とも言える。「愛、許し、献身」で、私はキリストを思い出した。彼の出現が魚座の時代と関係あるのかもしれない。しかし、自分の属するグループへの「献身」が行き過ぎて、排他的に他のグループと反目しあう面も強調された。それぞれのグループが、男性的なピラミッド型の縦社会を形作り、他のグループを自分のグループの傘下に納める競争さえも、献身の目的になってしまったのだと言う。情報も上から下へ縦の一方向に流れる社会を形作った。

それに対し、水瓶座の時代(西暦2013前後ー西暦4000年???)は、魚座の男性的な縦社会から女性的な横社会にシフトして行く。競争から協調のネットワーク社会に変わって行くとも言える。情報も魚座時代のように上から下へと言う縦の一方向ではなくなり、もっと自由に横からも下からも流れるようになる。「博愛、平等、自由」がキーワードである。水瓶座の時代の革命は、カリスマなリーダーを必要としない。目覚めた一般市民達が横のネットワークのつながりで、物事を決めて行く。そして、5次元、6次元を意識した直感的な市民が一般化していくと言うのだ。そして、女性的な横社会の中で、女性性が重要な役割を担って行く様になって行く。

[チェゲバラの様なカリスマが懐かしいと思える時代が来るのかもしれない。
ヴェネツイアビエンナーレ(美術博覧会)にて]

1996年頃、ニューヨークの瞑想の先生が言っていた時はチンプンカンプンだった話なのだが、2009年の今現在、友人の話を聞いて、多少、自分の成長がうかがえた。話の大半は、やはり難しいものであったのだが、最後の横社会ネットワークの話に、なぜか心が弾んだ。

上智大学の新聞学科時代の「未来の双方向マルチメディアの出現」の講義を思い出したのだった。その講義は、カナダのマスメディア研究者マクルーハンの理論を中心に展開するものだった。その中で、将来できるであろう「双方向マルチメディア」が世界を変えて行く事になると言う印象的な仮説があったのだ。

ルネサンス初期に、グーテンベルグの印刷術の発明され、情報伝播の速度が飛躍的にアップした。文化史、精神史、科学史、すべての分野において革命だったルネサンスは、印刷術のおかげもあり、すぐに世界中に広まった。印刷術で聖書も、より身近になった。カトリックの堕落も知れ渡り、プロテスタント運動が起こった。プロテスタントとは、印刷術とマスコミの誕生による革命とも言えよう。そして、20世紀のラジオ、テレビなどの発明は、情報の流れの速度を一層、早めた。しかし、マスメディアを使うためには常に大資本が必要であり、情報は必ず上(権力者)から下(市民)へ一方向に流れてきた。

[ガレリアを行き交うミラノ市民]

一方向ではなく、相互に情報が行き交う「双方向マルチメディア」が産まれると、情報の新革命が起きる。情報の「流れの早さ」だけでなく、「流れの方向」が変わるからだ。上から下へという構図が壊れて、縦横無尽に情報がネットワークを行き交う事になる。そして、地球は一つの脳、すなわち「Global Brain」になって行くと言うのが結論だった。

その授業を聞いていたのは1990年代の初めなので、「双方向マルチメディア」と言う言葉を使っていたのだが、、、今なら「インターネット」と言う言葉を、あてはめても良いのかもしれない。

そして、この「Global Brain(地球脳)」という言葉は、その特質を見事に言い当てている。

私たちの体は「脳」の司令を受けて動いている。脳は常に司令塔であり、情報の流れの上流にある。ほぼすべて脳で決めた事を、情報の流れの下流にある体に伝える。魚座の時代の縦社会の情報の流れの様だ。脳がマスメディアであり、体が市民と例える事が出来る。

ところが、私たちの「脳」の中には司令塔はいない。脳の中には神経細胞とシナプスのネットワークが縦横無尽に走り、そのネットワークが共同で決定を下す。脳の中でも生命維持機能に関わる部分は、脳のより内部に位置するのだが、その部分が司令塔なわけではない。脳の一部に損傷をおっても、脳の別な部位が、その機能を補う事がある。あと、二人の人間が、同じ決定を下したとしても、まったく違う脳の部位を使うのが普通であり、脳の中に特別な司令塔はない。

インターネットは元々、合衆国国防総省が開発した分散型情報ネットワークが起源であると言われている。もし、司令塔が爆破されたら、すべてを失う事になるので、司令塔をネットワークで分散する事によって、情報の損失を防ぐ目的で作られた。まさに人間の「脳」の機能をまねたと言えるのだ。

そのインターネットが、全世界に張り巡らされ、World Wide Web (WWW)を通して情報が行き交う。地球が、脳の神経細胞とシナプスの様な、縦横無尽のネットワークに覆われている。唯一の司令塔がどこかにあるわけではなく、情報の流れにも、上流と下流が曖昧なのだ。確かに、地球が一つの脳、「Global Brain」になってきたとも言える。

[ミラノのドゥオモと、アーバンスクリーンに映る地球。
かつて最大のマスメディアは教会だった]

大学時代の講義、「未来の双方向マルチメディアの出現」が、今現実になってきている。そして、その話は難解な西洋占星術と水瓶座の時代の話と符合していく。インターネットは、水瓶座時代の横社会ネットワークのツールとして、最適だとは言えないだろうか?

インターネットの歴史はまだ浅い。私たちが使っているインターネットは、もちろんながら、まだ完成形ではない。グーテンベルグの印刷術が長い時間をかけて、様々な革命を引き起こした様に、インターネットも、将来、何らかの革命を起こす可能性があるのかもしれない。

http://info.cern.ch/
ところで、このページは世界で最初のWebのページである。スイスのジュネーブにあるCERN(欧州原子核研究機構)で働くTim Berners-Lee が、World Wide Web (WWW)を発明した。 社会貢献を考えて、この大発明で特許を取る事はなかった。私たちはいくらクリックしても、彼らに使用料を払う必要もない。Webには、「インテリジェンスのオープンな共有」という哲学が根底に流れているのだ。

今までの様にマスメディア業界人の市民に対しての「上からの目線」は、これ以上は通用しないはずだ。新しい時代の幕開けが待ち遠しい。