Friday, January 8, 2010

フォトショップ、エストニア、父の愛情、HELEMAIの笑顔


 F.I.Tのフォトショップのクラス

HELEMAI は、NY在住のジュエリーデザイナーで画家。F.I.T.(ニューヨーク州立ファッション工科大学)のフォトショップのクラスの同級生だった。

1990年代の中頃、フォトショップで画像を加工しても、高画質に印刷する技術がなかった。印刷できないのだから、作品をつくる必要のあるアートスクールの生徒には役に立たない。しかし、そこには未来に対する投資という意味合いがあった。

ニューヨークの若者はそう言った意味での「未来」にとても敏感だったように思う。例えば、 隣のHTMLのクラスでは、ヴィジュアル的に複雑で、とても見栄えの良い、しかも電話線接続では、見られないような「重い」サイトをつくっている学生がいた。その当時、インターネットの接続は電話線接続以外になかった。要するに「重すぎて」、見られない。意味をなさないサイトだった。今考えると、彼らは、未来のためにサイトを作っていたようなものだ。

私たちのフォトショップのクラスでは、SyQuest とか言う44MBのVHSビデオカセットのような巨大なメモリーカセットを持参するのが必須だった。今では、あのメモリーカセットの百分の一ぐらいの大きさのUSBメモリースティックの中に、数千倍の情報を書き込む事もできるだろう。コンピューター関連の時代の進歩は本当にめざましい。

[ヴェネチアンマントを羽織るHELEMAI]

エストニアという国

フォトショップのクラスで隣に座っていたHELEMAIは、自分の絵画の作品をスキャンして、ケラケラ笑いながら画像加工を楽しんでいた。それがまた、常に芸術的に形になっていたのが印象的だった。

F.I.T.には、クラス以外の時間でもコンピュータールームにアクセスできるシステムがあって、まだ自分のコンピューターを持っていなかった私たちは、フォトショップの勉強がてら、よく遊びに行ったものだ。

ある日、コンピュータールームが閉まる時間になって追い出された後、HELEMAIと話しながら地下鉄の駅に向かっていた時に、彼女は自分がエストニア人だと教えてくれた。私は「エストニア?」と聞き返した。聞いた事もない国だったからだ。彼女は、 「フィンランドの隣の国なの」と答えた。

 「フィンランドの隣にそんな国があったっけ???」と私は地理の授業を思い出そうとしたが、なにも思い出せなかった。それもそのはず、そんな国は私の教科書には書いていなかったからだ。

「旧ソビエト連邦」と言ってくれればすぐにわかったのだが、彼女は、感情的に、そうは言いたくない事情があったのだ。サンクトペテルブルグの美術学校を卒業した後、1980年代後半に、幼児の美術教師としてアメリカに招かれた。ソビエト人として、アメリカに入国したわけだが、政情不安定な国の出身者の為の特別ビサで、アメリカ滞在の延長が許された。共産圏からアメリカに来るのはとても難しい時代だったが、芸術家としての自由を求めて、色々な手を尽くした。もちろん、ソビエト人がアメリカに滞在する方法など、どこにも書いていなかった。ソビエト併合以前のいわゆる旧エストニア人同士が助け合って、耳で聞いた情報だけを頼りに手探り状態な生活だったと言う。

エストニアは最初にソビエトから独立しようとしていた国だった。元々、言語も民族も文化も、ロシアよりもフィンランドに近く、知的レベルも高い国だったそうだ。タリン音楽祭で国家独立を示唆する歌を大合唱して、それから独立運動がはじまった。禁止されている歌を歌う事が彼らの意思を表していた。6万人で歌えば、ソビエト警察も全員を逮捕するわけにはいかない。歌う事が、エストニア人が得た最初の自由だった。 ソビエト政府の暴力的な武力に対して、エストニア人の独立運動は「歌う革命」と呼ばれた。しかし、その独立運動が、ソビエト政府を逆なでしてしまい、1991年、ソビエトが本格的な軍隊を引き連れて、エストニアを占拠した。そしてすべての独立運動もソビエト軍の圧倒的な武力によって鎮圧された。札幌市の人口よりも少ないエストニア人135万人の独立運動を根こそぎにつぶす事など、アメリカと武力を争っていたソビエトにとってみれば簡単な事だった。

父の愛情

その混乱の中、HLEMAIの父は、彼女に電話連絡をしてきた。「絶対にこの国には帰ってこないように。以前の様に、またロシア人によって、すべての自由が奪われてしまった。もう一生、会えないかもしれない。でも、お前はアメリカに留まるんだぞ!」彼女は初めて父の泣き崩れる声を聞いたと言う。

そして、しばらくしてゴルバチョフの行方が分からなくなり、その数日後には突然ソビエト連邦が崩壊した。 後になって考えてみると、エストニア占拠も、ソビエト崩壊途上の軍の最後の悪あがきだったとわかった。結果、エストニアが国の独立を勝ち取ったわけだ。HELEMAIの話で、「国が崩壊したり、独立を勝ち取ったりする」生の声を初めて聞いた。それはニュースや歴史の話ではなくて、一人一人の人間のストーリーに大きく影響するものなのだ。

コンピュータールームから地下鉄の駅に向かう途中、彼女が私に「エストニア人」だと名乗った時、彼女の脳裏には様々な事がよぎっていたはずだ。元ソビエト人の彼女は、今でもロシア語が聞こえてきても、知らない振りをするのだと言う。それほどに、ロシア人と一緒にして欲しくないという想いが強いのだ。

笑顔とは

HELEMAIがニューヨークからミラノに遊びにきた時、ミラノ唯一のデパート、リナシェンテのジュエリーコーナーで、偶然の彼女の作品を見つけた。一階の香水売り場の隣のジュエリーコーナーをみつけて、吸い寄せられる様に行ってみると、彼女がデザインを担当しているブランドが大きく店を構えていた。「この角のガラスケースの中、全部、私のデザイン」と言ってケラケラ嬉しそうに笑っていた。

彼女がデザインするジュエリーは、世界中で見る事ができるはずだ。アメリカンドリームをつかんだと行っても過言ではない。

ただ、彼女にアメリカンドリームという言葉は似合わない。純粋に普通の幸福を求めて、その時その時を必死に生きて来たような感じなのだ。

HELEMAIは、私に「笑顔」の重要さを教えてくれた。まず、彼女が笑顔を振りまくと、周りまでが笑顔で満たされる。幸福は「心の状態」であって、必要条件などないのだろう。笑顔のコツは、どんな状況でも何らかの幸福を見つければ良いだけなのだそうだ。実践は難しいかもしれないが、聞くだけなら、なんと簡単な事なのだろう!!!

「厳しい人生」と「純粋な笑顔」。HELEMAIに会ってから、その関係性を考えるようになった。

実際、周りを見ていて、純粋な笑顔を持っている人は、他人の痛みを分かる人で、しかも、その痛みを乗り越えてきた様な人に多いと思うのだが、どうだろう。

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