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Monday, August 15, 2016

サンティアゴ巡礼路 「歩くだけという、 究極にシンプルな旅」  


聖地サンティアゴへの巡礼。最古の記録は951年にも遡り、世界で初めて出版された旅行ガイドブックは「サンティアゴ巡礼案内」だったとされる。大ブームが起こった最盛期の12世紀には年間50万人が巡礼に挑戦したという記録があるそうだ。

1993年には、この巡礼路がユネスコ世界遺産に登録され、一度は廃れた巡礼路を再整備するキッカケとなった。東洋にはヨガなど体を使った教えがある。それと似た様なモノは西洋にはないかと探していた時に、 女優シャーリー・マクレーンの著書「カミーノ」を読み、その存在を知った。その後すぐにパウロ・コエーリョの「星の巡礼」を読破。周りに経験者がいなく、巡礼の話を誰かに聞くこともできず、情報といえば、たった二冊の本しかなかったものの、旅情をかきたてられるには十分すぎる理由が揃った。


そして2004年の夏、意を決し、すべての他の予定をキャンセルして断行。7月末の満月の日の早朝、スペインとの国境に近い、フランスのバスク地方の街サン・ジャン・ピエ・ドゥ・ポーを出発した。バックパックを背負い、カメラを携え、巡礼の証であるホタテ貝を身に着け聖地を目指し歩いた。


ピレネー山脈を越え、約1カ月掛け北スペイン約800kmを徒歩で横断。巡礼中は高揚して、急に至福感に襲われたり、泣きたくなる衝動を感じたりした。山では夏だというのに息が白くなるほど寒く、平野ではスペインの太陽に焼かれ脱水症状で倒れそうにもなった。この旅で初めて、カメラがこんなに重いものだという事を思い知った。道中には巡礼で命を落とした人々の墓碑が数多くあり、そのひとつに日本人のものがあったのが忘れられない。私は旅の最中、日本仏教の聖地である高野山の寺院で頂いた線香を毎日焚き、自分なりの祈りを表現し続けた。


大聖堂に到着できれば、さして難しいルールもなく、「歩くだけという、究極にシンプルな旅」。宇宙や地球に比べればあまりにも小さい自分が、万物とつながっている一体感。街で暮らす日常からは想像しえない感触を得ることができた。


スペイン北西にある聖地サンティアゴ・コンポステーラに到着した時は、その到達感の喜びもひとしおだったものの、巡礼の答えは、その道中ですでに見つけていた。巡礼を通し、聖なる存在は教会だけではなく、自然の中や、そこら中の身近にいることを実感し、到着前にすでに満たされた気分になっていたのだ。


巡礼中、ずっと自分につきっきりでいてくれる見えない存在を感じた。私はその存在を守護天使と呼び、ぶっ飛んだ対話を楽しんだ。もちろん、歩き疲れのせいで、気が触れていただけなのかもしれない。ただ、その充実感はひれ伏したいほどに確かなものだったのだ。




Day 1 最初の難関ピレネー山脈。フランスとスペインの国境に十字架が。


Day 2 教会内に設けられた巡礼者専用のベットルーム。満員の日は寝袋で床に寝る。


Day 9 様々なマリア像に出会う。信仰深い巡礼者は静かに祈りを捧げていた。


Day 14 巡礼の中盤は、緩い高低差がある平野。黄金色の麦畑が続く。


Day 15 同じようなリズムで歩く巡礼者とは仲間になる。
彼らの笑顔は旅の励ましとなった。
宗教的な理由での巡礼者はむしろ少数で、多くは夏のアドベンチャーとして楽しむ。


Day 16 巡礼中は黄色い矢印に沿って歩く。この先には目的地の大聖堂がある。

Day 21 友人たちと語らいながらの巡礼も楽しいだろう。
ただ、不思議と一人で歩く静けさで、孤独を感じる事はない。


Day 28 聖地近くの森の中で、神々しい光彩の巡礼者に注いでいた。


Day 30 旅の終着点、サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂。
カトリック三大巡礼地の一つとされる。

The Last Day 大聖堂内の巡礼達。それぞれの思いが交差している。
むせび泣く人の姿も見かけた。


雑誌「ローリングストーン日本版」2009年3月号に掲載したフォトエッセーを、加筆転載させて頂きました。








Saturday, June 29, 2013

撮影で垣間みたアルマーニの秘密

想像さえ寄せ付けないバイヤー時代のアルマーニ

モード界の帝王、ジョルジオ・アルマーニ(1934年7月11日生まれ/蟹座、動物占い:物静かなひつじ)は、マルチェロ・マストロヤンニやソフィア・ローレンなど往年の名優や、レナルドダヴィンチやボティチェリなどのルネサンスの芸術家と並んで、世界で最も知られているイタリア人の一人なのではないだろうか?ことファッションに疎い人でも、「アルマーニの名前だけは知っている」と言う人も多い。どうして、彼はこんなにも有名なのか? 

 

驚くべき事に、彼がファッションブランド「GIORGIO ARMANI」を立ち上げたのは40歳を過ぎてからだという。


ミラノのデパート「リナシェンテ」のバイヤーだった頃の彼はどんな若者だったのだろうか?普通のミラノの若者同様に、友達と出歩いたりしていたのだろうか?そんな私たちの陳腐な想像力を全く寄せ付けないくらいに、彼のオーラは完全に「帝王ジョルジオ・アルマーニ」なのである。彼は30年の間にファッション界に大帝国を作り上げてしまった。



若者がたむろするミラノの夏(写真:仁木岳彦) 


GiappoでSTILE ARMANIなもの

家具、食器、グラフィックデザイン……そしてもちろん洋服でも、とにかくシンプルで上質なミニマリズムを見つけたときに、イタリア人の若者が「GiappoでStile Armaniで格好いいね」と、口にしたりする。「Giappo」は若者のスラングで「日本っぽい」の意らしい。「日本っぽくって、 ちょっとアルマーニスタイルだし、行けてるね」という意味なのだろう。
ミニマリズムの美の代名詞といえば、日本とアルマーニなわけだ。そんな言い方がされるくらいに、彼の美の哲学は人々に根付いてしまっている。その明確でダイレクトな美のメッセージは、世界中に受け入れられたと言っても良いだろう。
ミラノにある「ARMANI NOBU」という日本食レストランに行くと、経営者であるアルマーニ自身もたまに食べに来る。私も出くわしたことがあるのだが、彼のお出ましが、なんと言ってもこのレストランの最大のイベントと言っても良いだろう。帝王おでましのときは、客達が控えめにざわめく。しかし、そんなことは気にもせず、辺りを見まわして、曲がっているテーブルなどを几帳面な感じで自分で直していたりする。「実際に知られている通り、几帳面で、完璧主義者なのかもしれない。しかし、案外若い頃には苦労した人なのかもしれないなあ……」などと、私は勝手に思いめぐらしたりしたのだった。



GIORGIO ARMANI(写真:仁木岳彦)

性能の良いラジオ、完璧なポートレート

そんなジョルジオ・アルマーニのポートレート撮影のときには、うやうやしく付き人が何人もついてきた。付き人のボスが撮影に関して、細部に渡っていろいろと指図してくるのだが、私は聞くだけ聞いて、あまり気にしない事にした。アルマーニ自身との会話が普通に交されている以上、そちらを優先すべきだろう。なんと言っても、被写体の彼自身が、私の欲していることに、注意深く耳を傾けてくれていたのだから。
撮影を始めてしばらくは、いつも通りのお決まりの笑顔を投げかけてくれた。しかし、それがいかにも”アルマーニ・スマイル”だったので、ファインダー越しに「もうちょっと真面目な顔、お願いできますか?」と聞いてみた。「No! No Serious, please!」と付き人が叫んでいる横で、アルマーニは私が正に求めていた、物想いにふける静かで完璧な表情を返してくれた。
撮影中に、フォトグラファーの私がエネルギーを吹きかけると、アルマーニの体の中を何のブロックもなしに、そのまま突き抜けて行く感じがした。彼のアンテナは、私が必要としていることを的確に受信していた。そして、そのエネルギーを何倍にも増幅させて、私に返してきたのだ。格段に性能の良いラジオの様だった。今まで何千人ものポートレートを撮って来たのだが、この増幅作業において彼以上の人に会った事はない。撮影は、ほんの数分だったのだが、彼のスタイルを象徴するような静けさの漂うミニマルなものとなった。 

同じようにして、彼はそのアンテナで、市井の人々と時代が渇望しているスタイルを的確に受信することができるのだろう。そして、それを臆することなく最大限に増幅して世界に発信してきたに違いない。

撮影を通して、そしてまた出来上がったポートレートをしばし眺めて、“モードの帝王”の秘密の一部を垣間みた気がした。 



(本文は、2009年の集英社ウェブウオモから加筆転載したものです。)

Thursday, December 20, 2012

行方不明の友人、聞こえて来た声


同窓会にこないS

私が卒業した大学は、伝統的に海外志向が強いことで知られる。海外の大都市には、たいてい同窓会組織があり、私が住むミラノでも、時折ながら会合が開かれる。最近の傾向としては、若い人なども遠慮なく参加する事だろう。それぞれの属する世界の裏話などで盛り上がり、知見や友人の輪を広めるようなものとなっている。先輩に対する大げさなお酌などは必要ない。

その年の会合は、日本的に言えば、忘年会シーズンに行われた。ミラノの冬は、空気が湿っているせいで太陽の光も届きにくく、暗く寒い。考えようによると、みんながどこかに集まって、美味しいご飯でも食べたり、お酒を酌み交わすには最高の季節とも言える。スカラ座のオペラシーズンが冬なのも、うなずける。こんな冬でも、せめて楽しくやろうよ!と言うミラネーゼの心意気なのだ。

霧のミラノ。Vittorio Emanuele通り。光が柔らかい。


このシーズンに抵抗力の落ちる事もある私はその年の忘年会シーズンは、疲れ目が極限に達していたせいか結膜炎気味に目が赤く充血していた。撮影での目の酷使と、コンピュータースクリーンのバックライトが疲れ目に追い打ちをかける。目薬を差しても、目の前が霞んで良くは見えなかったのをよく覚えている。

その忘年会を兼ねた同窓会は、いつもの中華レストランでのいつもながらの雰囲気だったのだが、ひとつ不可解な事があった。出席するはずのSが来ていなかったのだ。割と律儀な性格のSの事だから、来ないなら携帯で連絡をよこすはずなのだが。。。同窓会の途中に、何度が電話をしてみたが、返事もなし。不思議な事もあるものだ。まあ、そのうち何か言ってくるだろうと、あまり気にせずにいた。


ルームメートからの電話

次の日の朝、、、Sのルームメートからの電話のベルで飛び起きた。Sが行方不明だと言う。いつもは、おおよその帰宅時間なども伝えるSだっただけに、数日帰ってこないのは、絶対に何かがおかしいという話だった。

確かに、それはおかしい。出席予定だった同窓会に無言で来ないのも不思議としか言いようがなかったのだ。

バイオリン制作をミラノで学ぶS。彼の主な行動範囲は、バイオリン制作の学校、師匠の工房とアパート。彼のルームメートを中心にして、学校の先生や友人達、我々同窓会の仲間達で、知恵を出し合い手分けして情報などを集める事とした。

同窓会メンバーの意見で、警察への捜索願いだけでなく、在ミラノ日本領事館にも行方不明捜索願を出そうと言う事になった。それで日本の両親にも連絡が行く事になるだろう。ここは、「なるべく心配をかけない様に」などと心遣いをしている場面ではない。どんな手を使ってでも探す事が先決だろう。

まずは、共通の友人達に電話をかけまくった。Sの最近の様子、最後に会ったのはいつか?できるかぎり、様々な人たちと話した。しばらくすると、電話が熱くて持てなくなるくらいに加熱していた。だが、特別に不思議な様子は、何一つ見当たらなかった。

ただ、彼のブログには、「最近、イタリアの銀行の口座関連で厄介な事に巻き込まれている」と書かれていた。東欧の都市で現金が勝手に引き出されていたりしていて、その対応に追われているという事だった。

同窓会の先輩は、ルームメートにSの部屋へ入って、コンピューターのEメールの内容なども見てもらう様に提案した。まず分かったのは、Sの携帯電話が部屋にあったと言う事だった。私たちが、いくら彼に電話してもつながらなかったわけだ。部屋はいつも通り雑然としていて、片付けられていた様子はなかったと言う。コンピューターのメールのやりとりなども調べてみたのだが、特別な内容はなかった。

 Sに修復してもらった私の祖父のバイオリン。
バイオリン制作者はイタリア語では「Liutaio」と呼ばれ、
ビオラ、チェロ、ベースなどの弦楽器全般の制作と、古い弦楽器の修理修復が仕事となる。


行方不明、考えられるあゆる可能性

どんな可能性があるのだろうか?ルームメートや、同窓会メンバーと話した。

まずは自殺の可能性。私はそれはないと思ったのだが、人の内面は分からないものだと説得されると、確かにそうかもしれないとも思えて来たのだった。

北朝鮮の拉致。Sは元々、理工学部の卒業で、カメラメーカーで精密機械の設計をしていた。西洋芸術にも通じているインテリで、今やバイオリン制作者になろうとしている。ある意味では変わり種でもあり、北朝鮮などにとっては、マルチに使える人材なのかもしれない。可能性がないとは言い切れない。

なんらかの理由で病院に運ばれている可能性。または、なにかの事故で死亡してしまった可能性。いくつあるかわからないミラノ市内の病院などをしらみつぶしに探して歩くのは、現実的に無理で、何週間もかかるだろう。それよりも、警察と領事館に捜索願いを出しているので、もしそうならすぐに出て来ても良いはずだった。

他殺。例えば、ルームメートなどが殺人鬼で、押し入れに死体遺棄されているとか。。。

駆け落ち?まあ、それなら良いのだか、そんな粋な奴だったのだろうか?

そして、彼のブログに書いてあったイタリアの銀行口座が、東欧で引き落とされていると言う事件に本格的に巻き込まれた可能性。東欧マフィアによる誘拐など。

こういう時は、すべての可能性を考えてしまう。そして、どの可能性も、まったく否定する事はできなかった。インターネットで、「海外 行方不明」と検索すると沢山のページがでてきた。毎年、数百名の日本人が海外で行方不明になっていて、その大部分は未解決のままだと言う。Sも、そんな日本人の一人になってしまうのだろうか?

なんの手がかりもつかめないまま、時間が過ぎていった。Sが行方不明になって、数日後の日曜日は、日本人学校で毎年12月に行われる年一回のお祭り「La Festa」があった。それは、お茶、尺八、折り紙、書道などの日本の文化や、餅つきやお団子、おでん、お弁当などの食文化にも触れようと、在ミラノの日本人や、親日のイタリア人が大勢来るイベントだった。一度も行った事のないそのイベントにも、初めて訪れてみた。たくさんの日本人の友人とすれ違った。なにかSの手がかりはないかと各友人に聞いてみたのだが、新しい情報はなかった。ただ、たくさんの人が行方不明の事をすでに知っていて心配していた。無事を祈願して、祈りを捧げていると言う話も聞いた。日本人のコミュニティーというのは、普段から、そんなに強い結びつきがあるわけではない。でも実は、我々海外在住者にとって、日本人の友人と言うだけで、お互いをとても近いと感じている事も分かった。Sの行方不明についても、人ごとではない出来事として、みんな親身に思っている様子だった。思えば、家族や親戚もいなく、単身で来ている人も圧倒的に多いわけで、いざと言う時に頼れるのは、同郷人である場合も多い事だろう。

Sのアパートに立ち寄ると、同窓会のメンバーの一人も来ていた。ルームメートは、自分の携帯とSの携帯を持ち、ひっきりなしになる電話を、2丁拳銃のように両手で対応していた。その丁寧で心のこもった対応に、彼の人柄を見る様な気がした。一つの可能性が消えた。このルームメートが殺人鬼なわけがない。そして、確かにSの部屋の中は散らかっており、自殺の可能性もないと私は踏んだ。自殺するなら、もう少し整理する事だろう。あと、私の知っている限りのSは、思慮深くとも、思い詰めるタイプではない。

Sが行方不明になってから数日は、スパイ映画の登場人物の様に考えられるすべての可能性を想定しなければならなかった。脳みそのいつもと違う場所を使っているのが、自分でも手に取るように分かった。それは、私の中のなにかが特別に冴えてくるような感覚でもあり、それからくる疲労感は、肉体でも精神でもなく、もっと全体的というか、いつもと違う不思議なものだった。

結膜炎気味の疲れ目に目薬を差しても、光が強いと眩しすぎてよく見えない状態が続いていたのだが、なんとなくミラノ市内をクルマで走らせてみた。そして、カトリックの勉強を私に授けてくれた、シスターマリアの所に向かった。彼女は日本に20年近く住んだ事のあるカトリックの修道女で、ミラノの修道院で日本語とイタリア語を対比しながら聖書の勉強会をしたり、日本語のミサを企画したりしている。修道院の敷地内はミラノの中心部にありながら、完全な静寂につつまれており、独特な雰囲気がある。お御堂では、いつも世の平和を願う修道女達が、人生のすべてをかけて祈りを捧げている。Sはバイオリン制作を学ぶ身で、バイオリンやビオラなどを奏でる事ができた。彼自身はカトリック信者という訳ではなかったのだが、友人の輪のつながりで、クリスマスの日本語ミサなどで弾いてくれた事があった。それでシスターマリアもSの事をよく知っていたのだ。あと、私もいつもと違う疲労を感じていた事もあり、そんな修道院に行って一息つきたいという思いもあった。シスターマリアはいつもの笑顔で迎えてくれたのだが、Sの行方不明の話も、まったくうろたえる事なく、真剣に聞いてくれた。修道女と言うのは、意外に血なまぐさい話にも慣れているのだ。独裁者や軍部が支配する国などに派遣されている修道女仲間とは暗号でコンタクトを取りながら、なんらかの救済を試みている話も聞いた事があった。一部の修道女は世の闇にも、それなりに詳しいものなのだ。一通り聞いて、東欧マフィアはかなり質が悪いという話にも及んだ。「いずれにしても、祈っておきますから」と言ってくれた。祈りのプロフェッショナルの言葉に、なんとも心強いモノを感じた。

 
朝霧の電車通り。
ミラノの電車の線路は、車道を共有する。
線路の上はクルマのタイヤが滑りやすいので、とても注意して運転しなくてはならない。


先輩との電話を切った後、、、聞こえてきた

私達がそれまでに集めたすべての情報をつなぎ合わせると、行方不明になった日の夕方に韓国人の女性のクラスメートが、Sが学校から家に帰る様子をバス停で見かけたのが、彼に関する最後の情報だった。学校がVia Ripamonti、家がPiazza Napoliの近くなので、その日の彼の行動範囲はミラノ市内の南部。普通の住宅街が続く何の変哲もない地域なはずなのだが。。。しかし、一体何が起こったのだろうか?

その日曜の夜の9時頃、同窓会の先輩と電話で話した。「いち外国人の私達が警察に捜索願いをだした所で、真剣に警察が動くとは思えない。日本の外務省からイタリアの総務省へ掛け合ってもらう方向性で、私たちも動いた方が良いのではないか?それこそ、同窓会組織には外交官もいることだろう」。数日前の同窓会の和やかな会合からは、想像もできないような殺伐とした話の内容だった。そして、会話の最後に、その先輩から「仁木さんって、そう言えばちょっとした霊感がありますよね?どうですか?」と質問をうけた。私は確かにシンクロニシティー(偶然の一致)が頻繁に起こったり、自分が光に包まれるのを見たり、夢などで具体的な言葉や地名などのメッセージを受けとる事はあった。だが、お化けが見えたり、彼らと話したり、人の前世や未来をズバリと言い当てる様な世間一般の霊感とは違うものだった。いわゆる人を驚かす様な当てものではないのだ。「いや、そういう霊感じゃないんすよね」と言って、まずは電話を切った。

その後「んー、霊感ねえ」と想いながら、何となく居ても立っても居られないような感覚に襲われた。心のこもった対応をしていたルームメート、多分日本で何がなんだか分からないまま心配をなさっているご両親、そして我々ミラノの友人達の無事を祈る気持ちが尊く感じた。そして、悪気のない、人間の良心のエネルギーのカタマリの様なモノが私の中に入り込んで来た。そのパワーが私を突き動かしはじめた。

先輩との電話を切った後、「Niguarda」というミラノ市の北はずれの地名が聞こえるような気がしていた。それは音として「ニグアルダ」と聞こえるようでもあり、文字としてフラッシュバックのように「Niguarda」と見えるようでもあり。。。

例えば、バナナを仕事帰りに買わなければならないとしよう。忘れないように、「バナナ」という音を耳の中で反復してみたり、「BANANA」という文字列を頭の中で考えたり、あるいは「黄色いバナナ」を絵として思い返したりする事だろう。受験の勉強などでも何かを覚えようとする時は、そんな感じで脳の中で反復しながら覚えたはずだ。

とにかく、そんな感じで、「Niguarda」という声が、私の意思とは関係ないところで、頭の中で勝手に反復していた。しばらくすると、それがうるさいぐらいに、こだましてきた。しかし、確かNiguardaと言うのはミラノの北の地域なはずで、Sの行動範囲はミラノの南なので、まったく逆方向だった。理性的にはあり得ないと思ったのだが、興奮状態で体が勝手に動いた。

この「Niguarda」と言うのは一体なんだんだ。。。「なんて自分はバカなんだろう、そんな事あるわけないのに」と思いつつもコンピュターの前に座り、スペルもよく知らないのにも関わらず、適当に検索エンジンに「Niguarda」の文字を入れてみた。トップにはNiguarda地区の病院のウェブサイトが出て来た。そう言えば、高速道路を降りてミラノ市内に向かっている時などに、病院のマークにNiguardaと書いた標識を見た事があった。Niguarda地区には大きな病院があるのだろう。そして、そのサイトを見てみると、探すまでもなく、すぐに救急病棟の電話番号が目に飛び込んで来た。
Niguarda病院の標識

そういえば、救急車でボランティアをしている友人が、病状によっては、病院の得意不得意があり、遠くの病院に運ぶ事もたまにあると言っていたのも思い出した。しかし、病院なら警察か領事館が、まず最初に調べてくれているはずなのだが。。。

様々な思いや考えがよぎったものの、イチかバチか。とにかく、その勢いで救急病棟の電話番号に電話してみた。
「自分の友人が行方不明なので、ここ数日の間、探している。もしかしたら、そちらの病院に運ばれているかもしれないので、調べてもらえないか?」
私の興奮とは裏腹に、電話の向こうでは、極めて普通の軽い感じの事務的な応対だった。

そして、Sの名前を口頭で伝えると、なんと「その名前なら木曜日の夕方に、ここの病院に運ばれて来たって記録があるよ」と言う。私の興奮がピークに達した。Sは、ちょうど木曜から行方不明だったのだった。「で、彼は今どうしてるかわかりますか?生きてるのか、死んでるのか?今、どこにいるのか?」と聞くと、「明日の朝にまた電話してくれる?」とそっけない返事だった。もう夜9時過ぎで病院自体は閉まっているし、救急以外は時間外だから、そういう特別な対応はできないらしい。

しかし、糸口はつかめたのだ。興奮が冷めないまま、すぐに先輩に電話した。「そういう霊感じゃないんすよね」と言って電話を切ってから、15分も経っていなかっただろう。いつも冷静な先輩もその時ばかりは「えー、すごいですね」と声をあげた。「この場面は、日本領事館に連絡するべきだろう」との先輩の即座の判断で、担当外交官にすぐに連絡する事になった。あとは、外交官が、なんとか調べてくれるはずだ。

そして、一時間もしないうちに、外交官が病院に行ってSの無事を確認してくれて、私達にも連絡が来た。外交官には特別なアクセス権のようなモノがあるらしい。病院が閉まっている日曜の夜だったにも関わらず、Sが寝ていたNiguarda病院の集中治療室まで行って、外交官の携帯電話から直接日本の実家にも電話をして、S自身の声で無事を伝えたと言う。事故に巻き込まれ、右側の肋骨を10カ所折っているものの、内蔵も頭にも全くダメージはなく、まったく命に別状はないと言う事だった。

まずはバスタブに湯を張り、体を暖める事にした。それは、今までに感じた事のない種類の疲労感だった。人間は普段、自分たちの脳の数パーセントしか使っていないと聞く。我々の普段の生活は、多分、脳みその同じ場所ばかりを使って、グルグルとリピートしながら生きているのだ。その数日間は、普段は使っていない脳みその箇所が作動していたようだ。スパイ映画の様な推理するための脳、そして、直観霊感の脳。オーバーヒートしそうな感じだった。

バスタブからあがり、Eメールをチェックすると修道女シスターマリアからメッセージが来ていた。「夕飯の後、修道院のシスター全員50人ぐらいで、S君のためにお祈りとマリア様の歌を捧げておきました。彼の無事を心から祈っています。なんらかの奇跡が起きますように」という内容だった。

私は、興味本位ながら、「シスター、何時頃に祈ってくれたのですか?」と聞いてみた。「夕食の後だから9時ちょっと過ぎかしら」という答えだった。ちょうど「Niguarda」という声がこだましてきて、私が興奮しながらネットで調べたり、電話をかけたりした時間と一致していた。

先輩の霊感に対する質問と、みんなの良心と、シスター達の聖母マリアへの祈りと、色んな事が味方をしてくれて、私の直観が作動したのだろう。「Niguarda」という声を聞いた通り、Sはその地域の病院にいたのだった。いくつあるか分からない病院をしらみつぶしに電話したのではなく、一本目の電話で彼の居場所を探す出す事ができた。普段の私には、こんな能力はない。


シスター達に、あの日に歌ってくれたアヴェマリアを再現してもらった。
マリアバンビーナ修道院。


Sの良心から出た行為

翌朝、面会時間の少し前に病院に着いた。集中治療室の入り口には、すでにSの携帯電話を手にしたルームメートが来ていた。集中治療室と言うからには、Sの怪我もどんな状態なのか、まったくわからない。包帯でグルグル巻きになっているかもしれない。元来、病人や病院が苦手なので、色々と想像してしまった。

面会時間がはじまってすぐ、ルームメートと集中治療室に向かった。思ったよりも元気そうなSの姿があった。麻酔で頭が多少ボーとしている感じはあるもの意識も普通な感じだった。

雨の日にクルマの車窓から撮った。
湿気のせいでガラスがくもって、よく見えない。

学校から帰る途中、冬の雨が降りしきるPiazza Napoliの十字路で乗り換えのバスを待っていた時に、Sの目の前で交通事故が起こったと言う。Sは雨で濡れる混乱した事故現場の整理を手伝い、事故で倒れていたバイクを立て直そうとしていた。その時に別のクルマが十字路に入って来て、Sの近くまで飛び込んで来た瞬間までは覚えているとの事だった。事故現場で渋滞が起こり、そのイライラがまた別の事故を起こしたと言う事らしい。結局は、救急車が4台も駆けつける大事故だったそうだ。その日偶然、携帯電話を家に忘れたせいで、誰にも連絡ができず。。。バイオリン製作の学校くらいは、調べれば電話番号も簡単に出てくるだろうと考え、看護師やドクターに連絡を取りたいと交渉を試みたそうだ。ただ、集中治療室で麻酔が効いている病人が寝ぼけた感じで言っていたので、「まあそれよりも、今はゆっくり休め」と言う感じだったそうだ。加えて身分証明書を持ってなかった為、名前を聞かれて口頭で答えたのだが、日本人の名前なので最初の記録はスペルが間違っていたとの事だった。それで警察や領事館が探せだせなかったのかもしれない。私が電話した時にはスペルを直した後だったのか、もしくは、彼が運ばれた救急病棟にピンポイントで、しかも口頭で聞いたために、スペルミスがあっても探し出せたのかもしれない。Sの名前を発音する時に、私もS同様に日本語訛りで発音したのが、効を奏した可能性もある。。。いずれにしてもSは生きていた。しかも、淡々と現実を受け入れていて、想像以上にしっかりしていた。

色々と話している間に昼食の時間になった。「イタリアの病院食は意外に美味いんだよ。イテテ。ちょっと手伝ってくれる?」と、Sがノン気な感じで言った。

その頃には、私の結膜炎気味の疲れ目の充血も完全に直っていた。

Sが事故にあった状況は、目の前で起きた事故に手を差し出していたと言う人間の良心が元になっていた。事故そのものや怪我は大変な事だったとは言え、色んな意味で人間の良心がぐるりと一回転した様な出来事だったと、私は思っている。

退院した後は、マッサージなどのリハビリに励みながらも、バイオリン製作の修行を続けていた。あの頃、体の右側は疲れやすいと言っていた。そんな経験が、その後の制作活動や、バイオリンの音にどんな影響を与えるのだろうか?現在では、そんなミラノでの修行も無事に終え、日本でバイオリン工房を開いている。


偶然の意味を読む解く

「Niguarda」しかし、あの声は一体誰の声だったのだろうか?私は、あの声を発していたのは、聖母マリアだと思っている。以前、異次元の扉が開いた時、聖母マリアが話しているのを垣間みた事があった。ただ、その時は話の内容が分からなくて、悔しい思いをした。今回は一言とは言え、重要なメッセージをくれ、理解できた。そして、その声を聞いた同じ時間に、聖母マリアに捧げる祈りの歌「アヴェマリア」を修道女達50人程が歌ってくれていたと言うではないか?単なる偶然かもしれない。ただ、信仰とは、その偶然の意味を読み解くところからはじまる。もしくは、未来の科学は、こういう現象を論理的に説明している事だろう。とんだ災難にあったとは言え、こんなチャンスを私にくれたSにも感謝したい。

蛇足になってしまうかもしれないが、映画「スター・ウオーズ」で、師匠オビ=ワン・ケノービの「フォースを信じろ」という声を聞いて、ルーク・スカイウォーカーが戦闘機の照準装置をはずす闘いのシーンがある。それが幸いして、見事、ターゲットに命中する。僭越ながら、かつバカにされるのを覚悟で言うと、Sを探していた期間、私は疲れ目が結膜炎気味に充血していて、目がかすんでクリアに見えなかったのを、それになぞらえたい。写真という視覚芸術に携わりながらも、視覚や表層にとらわれていては、物事が的確に見えないという事もあるのではないか?我々は目を使いすぎているのかもしれない。五感どころか、第六感や祈りも駆使して物事を捉えなくてはならないのだろう。我々が普段見えている世界は、とても窮屈に限定された狭い視界にすぎないのかもしれないのだ。

Tuesday, July 24, 2012

奈っちゃんより

「いつから写真を始めたの?」「フォトグラファーになろうとしたキッカケって?」などと聞かれることも多い。

一眼レフのカメラを使いだしたのは高校時代。その頃は、詩や散文を書いたり、ビデオカメラで、友人達のバカ騒ぎを写したりするのも、心底楽しいと思ったものだ。その当時、なんとなく文章を書く事や映像世界に興味の方向性を見い出しはじめていた。先生と言うのは生徒の事をよく見ているもので、高校3年の春に担任の教師に放課後呼び出され、「お前、卒業文集か卒業アルバムの編集委員をやれ」と唐突に言われたのを覚えている。そして、フィルムと現像費が使い放題になると言う一声で、アルバム編集委員を選んだ。思い返せば、あの頃から大量の写真を撮っていた事になる。

映画などのメディア芸術や、報道やテレビ、広告業界などのマスコミなどに漠然と憧れ、大学はジャーナリズム学科に進んだ。

偶然だったのだが、その頃の私の大学では、バブル景気に浮かれたサークルの中で、写真部のレベルが飛び抜けて高く見えた。実際に紛争地帯に入っていって雑誌に発表している先輩や、海外志向の高い先輩の深い洞察とニュアンスがある海外スナップ、人間の奥底にまで入り込んだストリートポートレートなどに、正直心を打たれた。要するに取り組んでいる内容が、全く学生のレベルではなかったのだ。最初は、こんな先輩たちに何か教わってみたいと軽い気持ちで思ったのだった。そして、じきに私も暗室で写真のプリントに熱中するようになった。そんな素敵な先輩たちとの出会いが、写真に取り組むキッカケになった。

ただ、それでも、写真には憧れはなく、すぐに自分の仕事にしたいと思ったわけではなかった。

ミラノのスタジオの写真集の本棚から 「奈っちゃんより」三田奈津子写真集

ジャーナリズム学科は、70人ぐらいしかいない小さな学科で、都内の大学では珍しく学科内で仲が良かった。「珍しく」というのも、私が知る限りの友人の都内の大学生活は、サークル活動やバイト先などのつながりの方が濃く、学科の友人は教室で会うだけだったりする事が多い様子だったからだ。

私の大学のキャンパスのメインストリート沿いには、学食と購買の横に屋根のついた。雰囲気の良いオープンスペースがあった。入学後、割りとすぐから、そこにいつも学科の友人が大勢集まるようになっていた。いつしか、そこを「陽だまり」と呼ぶようになり、他にこれといって忙しい活動のない学科の友人達にとっての常時ミィーティングポイントとなった。

なぜ、あんなに学科内のつながりがあったかと思い返すと、なにかにつけて取りまとめてくれた「奈っちゃん」がいたからだろう。

8頭身なんて言い方があるけど、奈ちゃんは、たぶんそれ以上。
高校時代は、シンガポールのジュニアゴルフチャンピオンだったそうだ。

奈ちゃんは、シンガポール育ちの帰国子女で、180cm近くも背丈があり、びっくりするほど顔の小さい女の子だった。ファッションセンスも抜群で、長い足で照れることもなく、大股で堂々とキャンパスを歩くタイプだった。とにかく、この世のものとは思えない圧倒的な存在感を持ち合わせていた。

そんな見た目に加えて、英語の授業では帰国子女らしく、ぶっちぎりな英語で話し始めるのだった。我々は、男女問わず彼女に尊敬と憧憬の念を抱いた。

奈っちゃんは、シンガポールの南国育ちのせいか、笑顔にためらいがなく、人との距離感を縮めるのが究極的にうまかった。私にも積極的に話しかけてくれて、陽だまりに打ち解ける事ができた。私以外にも、そんな風にして、彼女に話しかけられた人がたくさんいた事だろう。言わば、奈っちゃんを媒介として、陽だまりが一つのコミュニティーになっていったのだ。第一印象では近づき難いくらいの「格好良さ」があっただけに、その人懐っこい性格とのギャップが魅力的だった。我々は、そんな友人がいるのを、誇らしく思ったものだった。

陽だまりにて。

ジャーナリズムを学ぶ我々の多くはマスコミ志望で、変わり者だったり、派手だったり、意味もなく元気だったりした。そして、なんといっても看板娘の奈っちゃんが目立ちまくっていて、、、陽だまりのコミュニティーはキャンパス内でも、知られた存在となっていった。

当然の成り行きで、学園祭のミスキャンパスコンテスト候補に奈っちゃんが選ばれた。惜しくも、後にフジテレビのアナウンサーとなる女性にミスキャンパスの座は奪われたものの、、、奈っちゃんは、準ミスキャンパスの座を得た。

バブルが弾ける直前の華やかな時代だった。奈っちゃんはモデルの仕事をはじめるようになり、時折テレビでも見かけるようになった。「クラスメートが、テレビに出ている!!!」という衝撃的な出来事の後も、奈っちゃんや陽だまりは、いつものままだった。

人懐っこい性格で、知り合いの多かった奈っちゃんは、キャスティングと言う仕事をはじめた。テレビか雑誌か映画か、よく分からないのだが、、、必要な場面にドンピシャの人材を見つけてきては、現場に送り込むという仕事だったらしい。とにかく、人を取りまとめる事には天賦の才があったのだ。

ルックス、性格、語学力や頭の良さも圧倒的なのに、それに嫉妬を持つ者はいなかった。
「そのうち、奈っちゃんは有名になるだろう。世界を駆け巡って何か伝えるレポーターの様な仕事につくのではないか?」
実現可能な射程内にいるのも、明らかだった。そして、
「我々は、そんな奈っちゃんの友人なのだ!」
というだけで、誇りと満足を覚え、嫉妬の念までは起こらなかった。最初から比べる対象ではなかったのだろう。

圧倒的な存在感。陽だまりの看板娘。

その頃、私は陽だまりの友人達の写真を撮っていた。身の回りの人の写真を撮るのが何もよりも好きだったからだ。もちろん、奈っちゃんの写真も撮った。陽だまりで撮るだけでなく、女性のポートレートとして撮る機会も何度かあった。

「仁木くんも、知らない人に話しかけるのがとても上手よね。あと、プロの人に撮ってもらうよりも、仁木くんの写真の方が好きだし、、、本当に、カメラマンになれるんじゃないかな?」
と、奈っちゃんが励ましてくれたのを覚えている。彼女の声色まで思い出すくらいに。私はまだ白黒写真の現像を覚えたばかりで、趣味の写真が楽しくはなってきたものの、まだ暗中模索していた時期だった。

大学3年の初夏に、奈っちゃんに頼まれて写真を撮った事があった。「モデルの宣伝用のポートフォリオに入れる写真が欲しいんだけど、、、出来れば仁木くんに撮って欲しい」との事だった。二つ返事でオーケーして、学校内を徘徊して写真を撮った。20年前の出来事なのだが、、、、その時の奈っちゃんの様子も忘れる事ができない。奈っちゃんは、元々写真を撮られる事に関しては多少戸惑いがあったのだが、その時は、まったく戸惑いがなく、自然にオープンで、そして、何よりもエネルギーの置き方が中庸だった。この中庸は、今まで何千人もの人を撮ってきたのだが、そう簡単にできるものではない。出ても引いてもいない稀な在り方だったからこそ、いまだにあの時の事を鮮明に覚えているのかもしれない。そして、時折ふと寂しそうな表情を見せた。その時はモデルになると変わるものだなあと感心したのだが、、、今では、無意識下に自分の運命を悟っていたのかもしれないと、思うようになった。

奈っちゃん、22才の初夏。

その時は何かいい写真が撮れたという感触があった。ただ、私の技術で撮れたというよりかは、奈っちゃんが、わざわざ機会を作って撮らせてくれたと言うような感じだった。

その初夏の奈っちゃんは、ちょっと病気がちで、風邪をこじらせたりしていた。

そして、長い夏休みから帰ると、奈っちゃんは帰省先のシンガポールから戻って来なかった。白血病の治療中だと言う。
「白血病と言っても、骨髄移植などで、じきに治るだろう。俺らよりも、よっぽど将来有望な奈っちゃんが死ぬわけがない」
そんな事を思っていたのもつかぬま、そのニュースを聞いたひと月後には、奈っちゃんが亡くなった事を伝える電話がなった。日本でも葬儀が行われる事を聞いた。

入院中も周りを気遣い、モデルエージェンシーにも、軽い冗談と笑いを交えつつ、夏休み後のすべての仕事のキャンセルを、淡々と自分で電話で伝えていたという。

すぐに私は奈っちゃんの写真のネガを持って、暗室に篭った。葬儀には、大きく引き伸ばした写真を持っていった。その時に私にできる事は、それしかなかったのだ。

20代になったばかりの我々にとって、こんなショックなことはなかった。
「そんな簡単に人って死んでしまうものなのか?それも、よりによって奈っちゃんが。。。」
まだ、バブルの訳の分からない陶酔感が漂う90年代はじめの都心のキャンパスの中で、そんな不思議な思いを陽だまりの仲間達と共有した。人生というのは、なんとも理不尽なものなのだ、、、悪い奴が長生きして、良い人が早死にする事だってあるのだ。若い私達は、心では理解できないのに、受け入れなければならない厳然とした事実に、打ちひしがれた。

私は、自分が撮った奈っちゃんの写真と、友人達の奈っちゃんに関する文章や詩を合わせて、写真文集を出版したいと思うようになった。中には友人の死を利用して、それを表現活動に昇華する事に反対する友人もいた。いつもの陽だまりで、学生らしく議論に至ったりもした。ただ、私は、ジャーナリズムを学ぶ自分たちにしかできない使命だと思った。

写真文集のために、私は改めて暗室に篭った。
「なんと私は写真がヘタなのだ!!!」
撮り直しが効かない写真なだけに、余計にそう思った。写真のネガは完璧ではなかった。露出も狂っていて、ちょっとピンぼけの写真も多く、構図もいまいちだった。そのネガから階調の良い美しい写真をプリントを作るのは、至難の技だった。写真を一から、勉強すべきだと痛感したのはその時だった。瞬間瞬間、最高の技術で撮っておかないと、後では撮り返しがつかない事を身にしみて分かったからだ。

それらの苦労してプリントした写真と、友人達の愛情のこもった文章や詩を組み合わせてみると、奈っちゃんという人間が浮かび上がってきた。あと、ヘタではあるけれども、貴重な瞬間を撮り続けていた私の写真も、自分ながら評価したいと思った。「実際に、奈っちゃんが、この世にいた」という証拠として、写真の役割がとても大きなものに感じたからだ。

そんな作業を通して、写真という表現メディアに更なる可能性を感じ、それを仕事にしたいと思い始めた。その頃までには、過去の写真家の作品にも触れる機会もあり、フォトジャーナリストやポーレート作家の伝説のヒーローも知る事となった。そして、私は大学卒業後の進路を写真の勉強に充てたいと決めた。

その写真文集は、「奈っちゃんより」とタイトルをつけた。陽だまりの友人たちとの会話で、「自分たちの力で、奈っちゃんに捧げるという意味合いよりも、、、奈っちゃんが我々に置いていってくれた贈り物と言う意味合いがあるのではないか?」という話になったからだ。そんな仲間たちに協力してもらって、自分たちの在学中に、出版にこぎつける事ができた。大学の購買の本屋に直接交渉して、平積みしてくれる事になった。そして、誰が買ったのか想像できないくらいに、予想以上な冊数が売れ、しばらくすると刷った分がすべて売れ切れとなった。利益も出て、骨髄移植関連のNPOに募金した。

私は大学を卒業して、ひと月後には写真の勉強を目的にニューヨークに旅立った。それから、今までずっと海外暮らしをしており、奈っちゃんの励まし通りに本当に写真の仕事にも、ありつけるようにもなった。その間、偶然にも海外在住や海外出張中の日本人の中で、写真文集「奈っちゃんより」が家にあるという女性に三人ほど出会った。

彼女らに聞く所によると、学内の奈っちゃんの友人達などが、何冊も買って、それを友人達に配っていたらしいのだ。彼女らは、「こんな本当の話があるんだよ」と何かのキッカケにプレゼントされたり、見せてもらったりしたそうだ。その3人は、年代的に同じか、すこし下の年代だった。食事の時などに、なにげに大学でジャーナリズムを勉強していた話などから、「あの年代で、あの大学で、ジャーナリズムなら。。。」と、彼女らから、突然、奈っちゃんの話に飛ぶような感じで、その話題に及んだ。卒業後、かなりたってから謎がとけた。そうか、それであんなに売れたのか。奈っちゃんの友人達が何冊も買っていたとは。。。「やっぱり、奈っちゃんは、すごいなあ」

奈っちゃんは今でも色んな意味で、たくさんの人の心の中で生き続けているとも言えるだろう。若くして亡くなったとは言え、思い残すことなく、天国で安眠していることと、私は信じている。

奈っちゃんの写真を最後に撮ったのが、大学3年の初夏で、ちょうど今から20年前。先日、ミラノの気持ちの良い初夏の風に打たれながら歩いていて、ふとあの日の事を思い出した。

天国にいる奈っちゃんへ。
「そういえば、報告遅れたけどさ。。。まあ一応、”フォトグラファー仁木岳彦” なんて呼ばれるようになったよ。学生の時は励ましてくれて、ありがとう!」

Monday, March 22, 2010

ミラノのマドニーナとの出会い

 
[ミラノの中心のドゥオモ広場]

マドニーナとは

ヨーロッパの冬は暗く長い。住み始めて初めて知ったのだが、“太陽の国”と思われているイタリアも例外ではなかった。イタリアの文化は冬に育み、夏に開花する。華やかさと深みが両立する、ここの文化の秘密だ。
イタリアの街の中心には、必ず「ドゥオモ」と呼ばれる教会あり広場がある。まず、中心を定めて、そこから放射状に道を配置するのが、イタリアの街の作り方のセオリーである。ミラノのドゥオモ教会はマリア様に捧げられ、その突端では黄金に輝くマリア様が街を見下ろし、いつも見守っている。ミラネーゼ達は、 この街の守護聖人である聖母マリアを「マドニーナ」と呼び親しんでいる。

2002年の冬のある日、私は道端で写真用の三脚を見つけた。なかなか大きくて丈夫なプロ用のものだった。人通りの多いその歩道に横たわる三脚の周りを、歩行者達が避ける様に歩いていた。それは不思議な光景だった。こんな大きなものを道端に忘れるとは、どういう事だろう。そのフォトグラファーは、撮影の後、よほどの急ぎの予定があったに違いない。一週間前から約束していた親戚とのディナー、もしくは新しい恋人とのオペラ鑑賞の約束だったのかもしれない。
人通りの多いその歩道で、その三脚は明らかに邪魔な存在で、歩行者達の障害になっていた。立ち止って一瞬ためらったものの、私はその三脚を拾う事にした。
その日、私はファッションショー関連の撮影の仕事をしていた。毎年2月に行われるレディースのミラノ・コレクションの時期だったからだ。連日の仕事で神経を多少すり減らしていたものの、スポーツをした後の心地の良い疲労感のような感触もあった。そし て、その三脚を片手にボーッっと何も考えずに歩いていた。

はからずも揃った機材

ミラノの中心のドゥオモ広場にさしかかった時、その日が満月である事に気がついた。そして、広場の真ん中ぐらいに来た時に、その満月がドゥオモ教会の突端にある金色のマリア様の真後ろにあって、後光を差しているように見えた。しばらく、あっけに取られて、ただ見ていた。しばらくすると、雲がマリア様の周りを避ける様に動きはじめていた。マリア様のオーラが雲をコントロールしているようだった。

ふと我にかえった。ファッションショーの為に使っていたカメラにはすでに望遠レンズがついていた。フィルムも高感度のものが入れてあった。しかし、夜の風景は光量が低く、8分の1秒か、もっと遅いシャッタースピードで切らなくてならない。望遠レンズとの組み合わせだと大きく手ブレが出てしまって良い写真にならない。 ファッションショーの仕事では邪魔になるので私は三脚を使わないのだが、その日は、直前に偶然手に入れた三脚があった。はからずも、拾った三脚のおかげで、機材はすべてそろっていたのだ。 

 [2002年の冬に撮影した、ドゥオモ教会のマドニーナ]

拾ったばかりだったので、まだ慣れない三脚だったが、慌ててそれを広げて、その上にカメラをのせた。この三脚のおかげで、手ブレが防げたわけだ。ファインダー越しに見るマリア様は,とてつもない無限のエネルギーを発散していた。カメラを覗いていると、雲の動く速度は普通に目で見るよりも、とても早いのが分かった。
満月の月の光が、雲に反射して、その力を増幅させていた。みるみるうちに、マリア様が放つオーラをかたどる様に、そこだけ雲が裂けていった。見事にマリア様のオーラを月光と雲が表現していた。もしくは、月、光、雲、空気などがマリア様への尊敬の念をあらわにして いたようなようにも受け取れた。仏教画で言う後光と、キリスト教美術で言う聖人頭部の正円のアイデアを混ぜた様だった。映画の特殊効果の様な光景が、現実の目の前で繰り広げられていた。
ミラノのゴシック様式のドゥオモには、金色のマリア様が中央の突端に、その他の多数の聖人たちの彫像が、その周りにある。その聖人達が、マリア様の言葉を静かに聞き入っている様に見えた。マリア様のメッセージを一言一句、全身全霊で彼らは受け止めていた。
「そうか、マリア様は他の聖人達よりも一つ高い位置にいる」
マリア様はドラマチックに女性エネルギーを顕現させ、世の中を慈悲の心で包んでいた。私も聖人達同様、試しにマリア様の言葉に聞き入ってみた。
ファインダーを、息をのむ様に丁寧に覗き込み、自分の心臓の鼓動を押さえ込みながら、シャッターをたくさん切った。しばらくして、マリア様は何かを言い終わって、自分の気配を、いつも通りに戻した。そして、あっという間に厚い雲が満月を覆ってしまった。マリア 様の後光も消えて、いつも通りの風景に戻った。ほんの数分のスペクタクルだった。
マリア様が話していて、周りの聖人達が、それを熱心に聞いていた所までは理解できたのだが、マリア様が何について語っていたのかまでは分からなかった。私はマリア様の言葉を理解する能力が決定的に欠けていたからだ。何か大事な事を言っているのに、言語能力のせいで理解できないのは、なんとももどかしかった。マリア様の言葉を、もっと理解したいと思ったのは、その時からだった。

偶然居合わせた二人のミラネーゼ

ふと、目をカメラから上げると、たくさんのミラネーゼ達が足早にどこかに向かっていた。夜の7時半くらいだった。ドゥオモ広場には、家路に急ぐ人や、食前酒を飲みに行く人もいたことだろう。群衆はいつもの様に忙しくしていた。このドラマチックなシーンを見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。2人とも、私の近くにいた。そこが広場の中でも最も良く 見えた地点だったからだ。
私たちは目を合わして、「 Bellisima!見ましたか?」「 Incredibile!こんな不思議な光景、初めて見ました」などと言って、その信じがたい出来事について興奮して話した。彼らは、その体験を共有した仲間だった。もし、写真がよく撮れていたら、是非連絡をくれないかと、その初老の紳士達は、二人とも彼らの名刺を私に手渡した。
それは、小さな奇跡、大いなるものからのメッセージとでも呼ぶべきなのだろうか。それ以来、ミラノのドゥオモのマドニーナを見上げる度に、感謝を含んだ謙虚な気持ちが沸き起こるようになってきた。 

その数ヵ月後、カフェのテーブルで友人達と私が撮りためていた作品を見ていた時に、その場に居合わせた1人から「ミラノの冬の夜の風景で写真展をやらない か?」と持ちかけられた。その頃、私はミラノに来てまだ日が浅く、自分の住む街に敬意を表し、自己紹介の挨拶のつもりで、その話にすぐ乗る事にした。
ミラノの冬は湿気が多く霧がちで、光が空気の中をゆっくりと進む。ひたすら夏と海が好きなイタリア人たちは、 ミラノの厳しい冬に文句を言うのが定番なのだが、私はそんな冬の光を眺めながら歩くのが大好きだったのだ。ミラノの夜の風景がテーマなので、当然ながらマリア様の写真も、その一つとして飾る事にした。
ドゥオモ広場で一緒にスペクタクルを見ていた二人にも招待状を送った。マリア様の良い写真が撮れていたら、個人的に連絡を取ろうと思っていたのだが、偶然にも展覧会に招待できる運びとなってしまったのだ。
彼らは二人とも初日のオープニングパーティーがはじまる時間の前に、すでに会場に現れて、あの写真はどこだ?とまっ すぐにマリア様の写真の前に歩いていった。数ヵ月たったのに、まだ全く興奮が冷めていない様子だった。すぐに写真を買うことに決めてくれて、オープニングを待たずに、お買い上げの赤丸がついた。彼らは、あの写真が合成写真でもデジタル加工したものでもないことを証明する証人でもある。

写真にまつわる小さな奇跡

私の小さな奇跡的な出来事と写真を人に分かってもらいたいとは思うものの、これらの事は分かる人には分かるし、分からない人には分からないものらしい。合成写真と思う人は、そう思えばいいし、写真にまつわる奇跡を信じ られない人がいても、それは私にはどうにもできない。しかし、私には人の評価などはどうでも良い事に思えた。マリア様とのコンタクトの方に、気がとられていたからもしれない。
ある友人は、「仏教とキリスト教が高い位置で交差しているように思えた」という感想をくれたし、別の友人は「マリア様のメッセージを聖人達が聞いているんだね?」と言ってくれた。むしろ、驚いたのだが、分かる人には的確に伝わっていたのだ。
イタリアのメジャー新聞の一つである「リパブリカ」に写真評論家が、とても良い論評を書いてくれた。「un giapponese:sotto la luna di Milano」(ミラノの月の下の日本人)というタイトルでミラネーゼ達が見落としているミラノの美しさを日本人が見つけてくれたという内容だった。私にとって、イタリアで最初の写真展は盛況に終わった。

[忙しく行き交うミラネーゼ達] 

落とし物、メッセージ

しかし、あの三脚は誰が忘れたものなのだろうか?三脚が道端に落ちている風景を私は、あれ以来見た事がない。あの三脚がなければ、写真が撮れなかっただけに、あの落とし物の価値が、私の心に迫ってくる。
「マリア様は一体何を伝えようとしていたのだろう?」
メッセージを発していたのに、私はその言葉を解する事ができなかった。どうやって、彼女の言語を覚えれば良いのだろうか?
とりあえず、マリア様に感謝の気持ちを伝えてみた。そんな私の小さな試みが、信仰という人類の壮大な試みにつながって行くのかもしれない。なんといっても今では、そんな私の妄想が、帰依の心を作り出し、人生の支えとなってしまったのだから。
あの日、あの光景を見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。夕方のドゥオモ広場にはたくさんの人が行き来しているのに。私たちが普段、気がつかないだけで、あんな光景が毎日どこかで繰り広げられているのかもしれない。


Friday, January 8, 2010

フォトショップ、エストニア、父の愛情、HELEMAIの笑顔


 F.I.Tのフォトショップのクラス

HELEMAI は、NY在住のジュエリーデザイナーで画家。F.I.T.(ニューヨーク州立ファッション工科大学)のフォトショップのクラスの同級生だった。

1990年代の中頃、フォトショップで画像を加工しても、高画質に印刷する技術がなかった。印刷できないのだから、作品をつくる必要のあるアートスクールの生徒には役に立たない。しかし、そこには未来に対する投資という意味合いがあった。

ニューヨークの若者はそう言った意味での「未来」にとても敏感だったように思う。例えば、 隣のHTMLのクラスでは、ヴィジュアル的に複雑で、とても見栄えの良い、しかも電話線接続では、見られないような「重い」サイトをつくっている学生がいた。その当時、インターネットの接続は電話線接続以外になかった。要するに「重すぎて」、見られない。意味をなさないサイトだった。今考えると、彼らは、未来のためにサイトを作っていたようなものだ。

私たちのフォトショップのクラスでは、SyQuest とか言う44MBのVHSビデオカセットのような巨大なメモリーカセットを持参するのが必須だった。今では、あのメモリーカセットの百分の一ぐらいの大きさのUSBメモリースティックの中に、数千倍の情報を書き込む事もできるだろう。コンピューター関連の時代の進歩は本当にめざましい。

[ヴェネチアンマントを羽織るHELEMAI]

エストニアという国

フォトショップのクラスで隣に座っていたHELEMAIは、自分の絵画の作品をスキャンして、ケラケラ笑いながら画像加工を楽しんでいた。それがまた、常に芸術的に形になっていたのが印象的だった。

F.I.T.には、クラス以外の時間でもコンピュータールームにアクセスできるシステムがあって、まだ自分のコンピューターを持っていなかった私たちは、フォトショップの勉強がてら、よく遊びに行ったものだ。

ある日、コンピュータールームが閉まる時間になって追い出された後、HELEMAIと話しながら地下鉄の駅に向かっていた時に、彼女は自分がエストニア人だと教えてくれた。私は「エストニア?」と聞き返した。聞いた事もない国だったからだ。彼女は、 「フィンランドの隣の国なの」と答えた。

 「フィンランドの隣にそんな国があったっけ???」と私は地理の授業を思い出そうとしたが、なにも思い出せなかった。それもそのはず、そんな国は私の教科書には書いていなかったからだ。

「旧ソビエト連邦」と言ってくれればすぐにわかったのだが、彼女は、感情的に、そうは言いたくない事情があったのだ。サンクトペテルブルグの美術学校を卒業した後、1980年代後半に、幼児の美術教師としてアメリカに招かれた。ソビエト人として、アメリカに入国したわけだが、政情不安定な国の出身者の為の特別ビサで、アメリカ滞在の延長が許された。共産圏からアメリカに来るのはとても難しい時代だったが、芸術家としての自由を求めて、色々な手を尽くした。もちろん、ソビエト人がアメリカに滞在する方法など、どこにも書いていなかった。ソビエト併合以前のいわゆる旧エストニア人同士が助け合って、耳で聞いた情報だけを頼りに手探り状態な生活だったと言う。

エストニアは最初にソビエトから独立しようとしていた国だった。元々、言語も民族も文化も、ロシアよりもフィンランドに近く、知的レベルも高い国だったそうだ。タリン音楽祭で国家独立を示唆する歌を大合唱して、それから独立運動がはじまった。禁止されている歌を歌う事が彼らの意思を表していた。6万人で歌えば、ソビエト警察も全員を逮捕するわけにはいかない。歌う事が、エストニア人が得た最初の自由だった。 ソビエト政府の暴力的な武力に対して、エストニア人の独立運動は「歌う革命」と呼ばれた。しかし、その独立運動が、ソビエト政府を逆なでしてしまい、1991年、ソビエトが本格的な軍隊を引き連れて、エストニアを占拠した。そしてすべての独立運動もソビエト軍の圧倒的な武力によって鎮圧された。札幌市の人口よりも少ないエストニア人135万人の独立運動を根こそぎにつぶす事など、アメリカと武力を争っていたソビエトにとってみれば簡単な事だった。

父の愛情

その混乱の中、HLEMAIの父は、彼女に電話連絡をしてきた。「絶対にこの国には帰ってこないように。以前の様に、またロシア人によって、すべての自由が奪われてしまった。もう一生、会えないかもしれない。でも、お前はアメリカに留まるんだぞ!」彼女は初めて父の泣き崩れる声を聞いたと言う。

そして、しばらくしてゴルバチョフの行方が分からなくなり、その数日後には突然ソビエト連邦が崩壊した。 後になって考えてみると、エストニア占拠も、ソビエト崩壊途上の軍の最後の悪あがきだったとわかった。結果、エストニアが国の独立を勝ち取ったわけだ。HELEMAIの話で、「国が崩壊したり、独立を勝ち取ったりする」生の声を初めて聞いた。それはニュースや歴史の話ではなくて、一人一人の人間のストーリーに大きく影響するものなのだ。

コンピュータールームから地下鉄の駅に向かう途中、彼女が私に「エストニア人」だと名乗った時、彼女の脳裏には様々な事がよぎっていたはずだ。元ソビエト人の彼女は、今でもロシア語が聞こえてきても、知らない振りをするのだと言う。それほどに、ロシア人と一緒にして欲しくないという想いが強いのだ。

笑顔とは

HELEMAIがニューヨークからミラノに遊びにきた時、ミラノ唯一のデパート、リナシェンテのジュエリーコーナーで、偶然の彼女の作品を見つけた。一階の香水売り場の隣のジュエリーコーナーをみつけて、吸い寄せられる様に行ってみると、彼女がデザインを担当しているブランドが大きく店を構えていた。「この角のガラスケースの中、全部、私のデザイン」と言ってケラケラ嬉しそうに笑っていた。

彼女がデザインするジュエリーは、世界中で見る事ができるはずだ。アメリカンドリームをつかんだと行っても過言ではない。

ただ、彼女にアメリカンドリームという言葉は似合わない。純粋に普通の幸福を求めて、その時その時を必死に生きて来たような感じなのだ。

HELEMAIは、私に「笑顔」の重要さを教えてくれた。まず、彼女が笑顔を振りまくと、周りまでが笑顔で満たされる。幸福は「心の状態」であって、必要条件などないのだろう。笑顔のコツは、どんな状況でも何らかの幸福を見つければ良いだけなのだそうだ。実践は難しいかもしれないが、聞くだけなら、なんと簡単な事なのだろう!!!

「厳しい人生」と「純粋な笑顔」。HELEMAIに会ってから、その関係性を考えるようになった。

実際、周りを見ていて、純粋な笑顔を持っている人は、他人の痛みを分かる人で、しかも、その痛みを乗り越えてきた様な人に多いと思うのだが、どうだろう。

Monday, November 30, 2009

香水と肌の関係

Areziaは、ファッション関連のテレビや雑誌のインタビュアーをしている。私もミラコレのバックステージで撮影する事も多いので、そこで頻繁に会う。有名なモデルなどがいたら、同業者同士で譲り合いながら、仕事をこなして行く。
写真を撮る事になり、Areziaが家に招いてくれた。部屋の一角には、たくさんの香水が並んでいた。ボトルがオシャレな有名ファッションブランドの香水 だけでなく、カトリックの修道院が精製した伝統的な香水や、ハーブ屋などで売っているシンプルな香水もあった。香水を集めるのが趣味なのではない。自分に 似合う香水を探しているうちに集まってしまったのだそうだ。
アダムとイブがエデンの楽園を追われて以来、私たちは「裸の自分が恥ずかしい」と思うようになった。Areziaは、「香水をしないで人と会うなんて信じられない」と言う。香水とは、肌から最も近い羞恥心の現れなのだ。

[ファッションブランドの香水だけでなく、修道院が精製する香水や、ハーブ屋のシンプルな香水もあった]

脈打つごとに揮発する香り

香水にはFirst Note、Second Note、Third Noteがあると言うことも、Areziaが教えてくれた。
First Noteとは、つけてすぐに感じる第一印象の香りのこと。香水をつけたときに、気分転換になったり気付けの意味があるそうだ。朝だったら、今日一日頑張ろ う、とか。夕方のお出かけの前なら、気分を昂揚させてくれるような役割がある。ただ、香水を選ぶ時、このFirst Noteにだまされてはいけないのだそうだ。なぜなら、それは10分程のつかの間の恍惚のための香りで、すぐに消えてゆくからだ。
Second Noteとは、つけてから30分後くらいに香る香水本来の香り。香水を選ぶときは、この香りを一応の基準にすると良いらしい。
Third Noteとは、肌に暖められた香水が発する香りの事。最後まで引っ張って長く残る香り。肌と一体となって、それは世界でひとつしかない独特の香りとなる。 実際に香水が香っている時間のほとんどは、このThird Noteとなる。肌の温度や湿度、皮脂量や体の酸度などによっても香水の香り方が変わるという。
そして、手首や首すじにつけると効率がよく香る。なぜなら、静脈が近いせいで、温度が体の他の部分よりも高い からだ。脈が打つたびに香りが空気中に揮発するというわけだ。私の香水に関する知識のすべてはAreziaからの受け売り。「自分で自分の香水の香りが気 になるようでは、その香水は肌に合っていない」というサインなのだそうだ。

[Areziaのヌード]

Third Noteと肌がなじみ、世界でひとつの香りとなる

ヌード撮影はモデルとフォトグラファーの美への挑戦であり、真剣勝負である。決して優雅なものではない。Areziaのヌードを撮っていると、彼女も汗ばんでくる。香水のThird Noteと彼女の肌がなじんで、世界でひとつしかない香りとなる。
マリリンモンローを思い出した。「ベッドでは何を着ているのですか?」と質問したジャーナリストがいたそうだ。「もちろん、Chanel No.5よ」と答えたのは有名な話だ。 
一糸まとわぬ姿になった時でも、香水だけはまとっている。それは、恥じらいを女のプライドに高めてしまっている行為とも言えよう。

Areziaが奇麗な体を惜しげもなく見せてくれるのは、彼女がキチンと香水をつけている女性だからだろう。香水をつけている限り、裸ではないのだ。「カメラの前で服を脱ぐことよりも、服を着ていても香水をつけないで外に出かけることの方が恥ずかしい」と彼女は言う。
総じてヨーロッパの女性が肌を見せることに抵抗がないのは、ここの香水文化のせいなのかもしれない。この季節、街中でも夏服からは日焼けした素肌が覗いている。しかし、それは素肌に見えるだけ。実は彼女たちは、キチンと“香りをまとっている”のだ。