Sunday, August 15, 2010

エルサレムの聖マリア

20代、許す限り旅をした。数ある訪れた場所の中で二カ所、また必ず戻ってきたいと強い縁を感じた場所があった。一つがイタリア。思った通りに、戻ってくる事ができた。それどころか、現在こうして住んでいる。

もう一つの場所は、イスラエルだった。十年以上前に一度訪れたきり、再訪の機会は、まだない。

 [徴兵前の抱擁]

イスラエル行きを決めたのは、知的好奇心からだった。多くの戦争の火種が、そこから来る。なぜ、イスラエルなのか?そんな漠然とした疑問があったのだ。

まずは、飛行機の窓から見えるエジプト領の紅海沿いのシャルマシェイク空港に驚いた。滑走路が見えなかったからだ。砂漠に直接降りて行くように見えたのだ。徐々に飛行機が高度を下げて、着陸しようとすると飛行機の風が砂を舞い上げて、滑走路が顔を出した。滑走路がうっすらと、砂に覆われていたのだった。

[行き来する車は、みんなの交通機関となる]

エデンの園があってもおかしくないと思わせる場所

そこからはエジプト人のトラックの荷台や、行き来する乗用車に乗せてもらって、ゆっくりと北上した。紅海沿いのビーチのいくつかに滞在しながら、私は旧約聖書を読んだ。
神が六日間で地球を作って七日目に休んだ話や、アダムとイブが蛇にそそのかされて禁断の木の実「リンゴ」を食べて楽園を追われてしまった話など、都会で読んだなら、おとぎの世界のような話が、紅海に浸りながら読むと現実感のあるものとなった。砂漠と紅海には、普段の論理的な思考をさえぎる様な雰囲気があった。人の少ない紅海沿いのビーチの向こう側に、エデンの楽園があっても、決しておかしくないとさえ思ってしまった程だった。そして、うむも言わせない強い存在、言うなれば「神」が存在しているような空気があるのだ。

地中海は一神教生誕の地。砂漠の自然は厳しい。アラブ語もヘブライ語も、人々はノドをかき鳴らして話す。風にかき消されて、自分の声さえ響かないような場所なのだ。アジアの様に、観察したり触ったり、跳ね返って来る自分の声で、相対的に自分の存在と位置を確認できる豊かな優しい自然とはまったく異なる。砂漠では自分の存在や位置を確認したり、次に行く場所を決める時、空をあおぐしかないのだ。それが、概念としての「神」を必要としたと言う説があるようだが、おおまか納得できる。

人生最高のキブツの食事、誰もが欲しがる土地

更に北上して、エジプトからイスラエルに入った。モーゼに導かれたユダヤの民も似た道筋を通ったのかもしれない。まずは、死海の近くのキブツに泊まる事にした。塩分のせいで体が浮く事で有名な死海も体験してみたかったからだ。キブツとはイスラエル各地に、ユダヤ人が形作った自給自足コミュニティーの事である。いわゆる共産主義が、完璧に機能している。リーダーは持回り制で、それぞれは、土地財産などの所有物をほとんど持たない。なにより一人一人の教育レベルが高く、意識的に農作業などの仕事に励むのだそうだ。子供たちは、行きたければアメリカの大学に行く事もできるし、コミュニティーが支援する。なのに将来、コミュニティーに帰ってくる必要もないのだそうだ。いわゆる宗教的なコミュニケティーでもない。共産主義は、コミュニティーが小さくて、個々の目的意識が高い時には、機能するものらしい。

そして、その死海のほとりのキブツの食堂で食べた食事は、今までの人生で食べたものの中で、最も美味しいものだった。私は感動しすぎて、泣きそうになった。その食事は、パン、ヨーグルト、野菜サラダ、卵焼き、肉のグリル、果物のような至ってシンプルなものだったが、何かが特別だった。地球のエネルギーが、ダイレクトに体に入って来て、体中の細胞のすべてがビックリして目を覚ましたようだった。

キブツのメンバーと一緒に、死海にも行ってみた。老若男女がケラケラ屈託なく笑いながら泥を塗り合っていた。海水の10倍の塩分を含むという塩湖に体を浮かべてみた。心身ともに、生き返った気がしてきた。食事といい、死海といい、それ以上のものは、何も必要と感じないであろう。私は体の芯から、満ち足りてしまった。英語で「The Promised Land(約束の地)」と言えば、イスラエルの事を指す。私は、そこが特別な場所だと、確かに体で感じた。こんなに特別な場所なら、誰もがこの土地を欲しがって、戦争するのも不思議はない。。。戦争の火種は、そんな土地の特別な磁気から来るのかもしれない。とにかく、とてつもない土地の恵みを感じた。他のどこの場所でも、こんな感覚は感じた事はなかった。

[階段の踊り場で祈る修道僧]

エルサレムでの神秘体験、聖マリアとの出会い

南の砂漠地帯、北の森林地帯、イスラエル各地を色々と回った。しかし、イスラエルの旅のメインイベントはエルサレムへの巡礼だろう。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の巡礼地であり、戦争や人類の歴史の舞台の中心地である。宗教的には完全にニュートラルだった私は知的好奇心で、各巡礼地を普通に見物するつもりだった。。。

イエスキリストが十字架に掛けられたゴルゴダの丘があったされる場所には、聖墳墓教会というキリスト教の聖堂がある。何世紀にも渡って、ローマカトリック、ギリシャ正教会など6つの教派により共同管理されていると言う。有名な教会のわりには、入り口が極端に小さかった。それは、教会を守ると言うのが、命がけだった証拠でもある。

聖堂の右の階段を上がった所が昔のゴルゴダの丘にあたり、そこにも小部屋があり聖マリア像があった。細かな記憶が曖昧なのだが、その部屋にいた正教会系の神父と、短い会話を交した後、確か聖マリア像のちかくに座った。そして、私は、何の前触れもなく突然泣き崩れたのだった。五分泣いていたのか、一時間泣いていたのかも、分からない。まったく時間の感覚が麻痺していたからだ。泣くと言っても、シクシクと涙がこぼれると言う泣き方ではなくて、声をだして激しく嗚咽していた。そして、どこからともなく無限の白い光がやってきて、優しく私を包んだ。その白い光の存在は、とてつもなく暖かい愛のエネルギーだった。私は今まで一人で旅してきたと思っていたのだが、それが完全な誤りだった事に気がついた。その存在は、常に私と共にいてくれていたのだ。そして、すべてが許されることも知った。あれ以前にも以後にも、あの時の様な100%の幸福感を感じた事はない。その白い光は、空に浮かぶ白い雲のようにフワフワしていて、360度すべての角度から、まるごと私の体をすっぽりと包んでくれた。嗚咽している間も、巡礼者や観光客がひっきりなしに、その部屋に入ってきたり出て行ったりしていた。観光地の教会というのは、人がたくさんいて騒々しく、清々しい雰囲気などないものだが、そこも例外ではなかった。私は目をつぶっていたわけではないので、そんなザワザワした人々の動きを涙越しに見ながら、平行して同時に、その無限の白い光を見ていた。自分が、矛盾なく、連続した二つのパラレルな世界に存在していた。

私は、探し求めていたわけでもないのに、いきなりそんな神秘体験をしてしまったわけだ。聖マリア像の近くに座っていたせいか、その暖かく無限の白い光の存在を聖マリアだと思うようになった。その体験以降、その白い光の存在だけには従順でありたいと思うようになった。例え、地球上のすべてのものに反抗したとしても。。。

[第三の目のチャクラが発光し、目に涙をためているようにも見える聖マリア像]

嗚咽の後、帰り際に私は、聖マリア像の写真を撮ったようだ。ニューヨークの自宅で白黒フィルムのネガを現像して、また驚かされた。その彫像が生きているような表情をしていて、しかもうっすらと涙を浮かべているように見えたからだ。「マリア様も泣いているではないか?」更に額の第三の目の所が、なぜか発光していて観音像のようにも見えた。私は写真を撮った時には、その額の光には気がつかなかった。実際、そんな光はあったのだろうか?
まあ、ろうそくか、なにかの光が反射したに違いない。ただ、二つの光が聖マリア像の両方の目に反射して、涙をためているような表情を演出し、もう一つの光が観音像のように額の第三の目のところで、ばっちり反射していた。そんな三つの光の完璧な偶然が起こるのは、とても稀な事だ。そんな偶然が、この写真の不思議な雰囲気を醸し出していた。

今では、この偶然が必然だったと解釈する事にしている。そして、あの白い光は普遍的な女神の愛の現れだと思うのだ。あの白い光を、仏教徒とは観音様と呼び、キリスト者は聖マリアと呼び分けているのではないか?東洋でも西洋でも、古代から同じ様に女神のエネルギーが降り注いできたに違いない。この写真には、西洋の聖マリアの向こうに東洋の観音様が透けてみえていると言うのが、自分なりの結論としている。
そして、現在、ヨーロッパに在住している事もあり、なんらかの形で東洋と西洋の橋渡しを担いたいと思う様にもなった。

今なら、軽く話せるのだが、当時は一年以上も私は誰にも、その神秘体験の一部始終を語る事はなかった。どう語って良いか分からなかったからだ。

旅が、人の人生を変える事もある。どう変わるかは予測できない。イスラエルへの旅行の後、世界中の宗教の比較や、仏教の密教を勉強してみたり、ヨガ、瞑想などを実践してみたりした。しかし、あの白い光の存在が、すべての私の行動の規範となっていた。堅苦しい事はなにもない。すべては許されるのだから。ただ、あの存在を裏切る事はできない。それだけは絶対な事となってしまった。そして、神秘体験から約十年後、私はカトリックの洗礼を受ける事となった。

次にイスラエルに行くとしたら、知的好奇心だけでなく、カトリック信者としても巡礼に行く事になるだろう。前回のように自由な身で行くのも楽しいだろうが、、、今の様に、自分の立ち位置がはっきりした上で見てみると、もっと深い事が分かるかもしれない。自分の信じている宗教が他よりも優れているなどと偏狭な想いを持たない限り、まだまだ面白い情報が入って来ると信じている。

戦争の火種がある場所だからこそ、「許しのテーマ」を背負って、キリストが、かの地で登場したのかもしれない。ただ、そのテーマを人々が理解したとは言い難い。

Monday, March 22, 2010

ミラノのマドニーナとの出会い

 
[ミラノの中心のドゥオモ広場]

マドニーナとは

ヨーロッパの冬は暗く長い。住み始めて初めて知ったのだが、“太陽の国”と思われているイタリアも例外ではなかった。イタリアの文化は冬に育み、夏に開花する。華やかさと深みが両立する、ここの文化の秘密だ。
イタリアの街の中心には、必ず「ドゥオモ」と呼ばれる教会あり広場がある。まず、中心を定めて、そこから放射状に道を配置するのが、イタリアの街の作り方のセオリーである。ミラノのドゥオモ教会はマリア様に捧げられ、その突端では黄金に輝くマリア様が街を見下ろし、いつも見守っている。ミラネーゼ達は、 この街の守護聖人である聖母マリアを「マドニーナ」と呼び親しんでいる。

2002年の冬のある日、私は道端で写真用の三脚を見つけた。なかなか大きくて丈夫なプロ用のものだった。人通りの多いその歩道に横たわる三脚の周りを、歩行者達が避ける様に歩いていた。それは不思議な光景だった。こんな大きなものを道端に忘れるとは、どういう事だろう。そのフォトグラファーは、撮影の後、よほどの急ぎの予定があったに違いない。一週間前から約束していた親戚とのディナー、もしくは新しい恋人とのオペラ鑑賞の約束だったのかもしれない。
人通りの多いその歩道で、その三脚は明らかに邪魔な存在で、歩行者達の障害になっていた。立ち止って一瞬ためらったものの、私はその三脚を拾う事にした。
その日、私はファッションショー関連の撮影の仕事をしていた。毎年2月に行われるレディースのミラノ・コレクションの時期だったからだ。連日の仕事で神経を多少すり減らしていたものの、スポーツをした後の心地の良い疲労感のような感触もあった。そし て、その三脚を片手にボーッっと何も考えずに歩いていた。

はからずも揃った機材

ミラノの中心のドゥオモ広場にさしかかった時、その日が満月である事に気がついた。そして、広場の真ん中ぐらいに来た時に、その満月がドゥオモ教会の突端にある金色のマリア様の真後ろにあって、後光を差しているように見えた。しばらく、あっけに取られて、ただ見ていた。しばらくすると、雲がマリア様の周りを避ける様に動きはじめていた。マリア様のオーラが雲をコントロールしているようだった。

ふと我にかえった。ファッションショーの為に使っていたカメラにはすでに望遠レンズがついていた。フィルムも高感度のものが入れてあった。しかし、夜の風景は光量が低く、8分の1秒か、もっと遅いシャッタースピードで切らなくてならない。望遠レンズとの組み合わせだと大きく手ブレが出てしまって良い写真にならない。 ファッションショーの仕事では邪魔になるので私は三脚を使わないのだが、その日は、直前に偶然手に入れた三脚があった。はからずも、拾った三脚のおかげで、機材はすべてそろっていたのだ。 

 [2002年の冬に撮影した、ドゥオモ教会のマドニーナ]

拾ったばかりだったので、まだ慣れない三脚だったが、慌ててそれを広げて、その上にカメラをのせた。この三脚のおかげで、手ブレが防げたわけだ。ファインダー越しに見るマリア様は,とてつもない無限のエネルギーを発散していた。カメラを覗いていると、雲の動く速度は普通に目で見るよりも、とても早いのが分かった。
満月の月の光が、雲に反射して、その力を増幅させていた。みるみるうちに、マリア様が放つオーラをかたどる様に、そこだけ雲が裂けていった。見事にマリア様のオーラを月光と雲が表現していた。もしくは、月、光、雲、空気などがマリア様への尊敬の念をあらわにして いたようなようにも受け取れた。仏教画で言う後光と、キリスト教美術で言う聖人頭部の正円のアイデアを混ぜた様だった。映画の特殊効果の様な光景が、現実の目の前で繰り広げられていた。
ミラノのゴシック様式のドゥオモには、金色のマリア様が中央の突端に、その他の多数の聖人たちの彫像が、その周りにある。その聖人達が、マリア様の言葉を静かに聞き入っている様に見えた。マリア様のメッセージを一言一句、全身全霊で彼らは受け止めていた。
「そうか、マリア様は他の聖人達よりも一つ高い位置にいる」
マリア様はドラマチックに女性エネルギーを顕現させ、世の中を慈悲の心で包んでいた。私も聖人達同様、試しにマリア様の言葉に聞き入ってみた。
ファインダーを、息をのむ様に丁寧に覗き込み、自分の心臓の鼓動を押さえ込みながら、シャッターをたくさん切った。しばらくして、マリア様は何かを言い終わって、自分の気配を、いつも通りに戻した。そして、あっという間に厚い雲が満月を覆ってしまった。マリア 様の後光も消えて、いつも通りの風景に戻った。ほんの数分のスペクタクルだった。
マリア様が話していて、周りの聖人達が、それを熱心に聞いていた所までは理解できたのだが、マリア様が何について語っていたのかまでは分からなかった。私はマリア様の言葉を理解する能力が決定的に欠けていたからだ。何か大事な事を言っているのに、言語能力のせいで理解できないのは、なんとももどかしかった。マリア様の言葉を、もっと理解したいと思ったのは、その時からだった。

偶然居合わせた二人のミラネーゼ

ふと、目をカメラから上げると、たくさんのミラネーゼ達が足早にどこかに向かっていた。夜の7時半くらいだった。ドゥオモ広場には、家路に急ぐ人や、食前酒を飲みに行く人もいたことだろう。群衆はいつもの様に忙しくしていた。このドラマチックなシーンを見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。2人とも、私の近くにいた。そこが広場の中でも最も良く 見えた地点だったからだ。
私たちは目を合わして、「 Bellisima!見ましたか?」「 Incredibile!こんな不思議な光景、初めて見ました」などと言って、その信じがたい出来事について興奮して話した。彼らは、その体験を共有した仲間だった。もし、写真がよく撮れていたら、是非連絡をくれないかと、その初老の紳士達は、二人とも彼らの名刺を私に手渡した。
それは、小さな奇跡、大いなるものからのメッセージとでも呼ぶべきなのだろうか。それ以来、ミラノのドゥオモのマドニーナを見上げる度に、感謝を含んだ謙虚な気持ちが沸き起こるようになってきた。 

その数ヵ月後、カフェのテーブルで友人達と私が撮りためていた作品を見ていた時に、その場に居合わせた1人から「ミラノの冬の夜の風景で写真展をやらない か?」と持ちかけられた。その頃、私はミラノに来てまだ日が浅く、自分の住む街に敬意を表し、自己紹介の挨拶のつもりで、その話にすぐ乗る事にした。
ミラノの冬は湿気が多く霧がちで、光が空気の中をゆっくりと進む。ひたすら夏と海が好きなイタリア人たちは、 ミラノの厳しい冬に文句を言うのが定番なのだが、私はそんな冬の光を眺めながら歩くのが大好きだったのだ。ミラノの夜の風景がテーマなので、当然ながらマリア様の写真も、その一つとして飾る事にした。
ドゥオモ広場で一緒にスペクタクルを見ていた二人にも招待状を送った。マリア様の良い写真が撮れていたら、個人的に連絡を取ろうと思っていたのだが、偶然にも展覧会に招待できる運びとなってしまったのだ。
彼らは二人とも初日のオープニングパーティーがはじまる時間の前に、すでに会場に現れて、あの写真はどこだ?とまっ すぐにマリア様の写真の前に歩いていった。数ヵ月たったのに、まだ全く興奮が冷めていない様子だった。すぐに写真を買うことに決めてくれて、オープニングを待たずに、お買い上げの赤丸がついた。彼らは、あの写真が合成写真でもデジタル加工したものでもないことを証明する証人でもある。

写真にまつわる小さな奇跡

私の小さな奇跡的な出来事と写真を人に分かってもらいたいとは思うものの、これらの事は分かる人には分かるし、分からない人には分からないものらしい。合成写真と思う人は、そう思えばいいし、写真にまつわる奇跡を信じ られない人がいても、それは私にはどうにもできない。しかし、私には人の評価などはどうでも良い事に思えた。マリア様とのコンタクトの方に、気がとられていたからもしれない。
ある友人は、「仏教とキリスト教が高い位置で交差しているように思えた」という感想をくれたし、別の友人は「マリア様のメッセージを聖人達が聞いているんだね?」と言ってくれた。むしろ、驚いたのだが、分かる人には的確に伝わっていたのだ。
イタリアのメジャー新聞の一つである「リパブリカ」に写真評論家が、とても良い論評を書いてくれた。「un giapponese:sotto la luna di Milano」(ミラノの月の下の日本人)というタイトルでミラネーゼ達が見落としているミラノの美しさを日本人が見つけてくれたという内容だった。私にとって、イタリアで最初の写真展は盛況に終わった。

[忙しく行き交うミラネーゼ達] 

落とし物、メッセージ

しかし、あの三脚は誰が忘れたものなのだろうか?三脚が道端に落ちている風景を私は、あれ以来見た事がない。あの三脚がなければ、写真が撮れなかっただけに、あの落とし物の価値が、私の心に迫ってくる。
「マリア様は一体何を伝えようとしていたのだろう?」
メッセージを発していたのに、私はその言葉を解する事ができなかった。どうやって、彼女の言語を覚えれば良いのだろうか?
とりあえず、マリア様に感謝の気持ちを伝えてみた。そんな私の小さな試みが、信仰という人類の壮大な試みにつながって行くのかもしれない。なんといっても今では、そんな私の妄想が、帰依の心を作り出し、人生の支えとなってしまったのだから。
あの日、あの光景を見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。夕方のドゥオモ広場にはたくさんの人が行き来しているのに。私たちが普段、気がつかないだけで、あんな光景が毎日どこかで繰り広げられているのかもしれない。


Friday, January 8, 2010

フォトショップ、エストニア、父の愛情、HELEMAIの笑顔


 F.I.Tのフォトショップのクラス

HELEMAI は、NY在住のジュエリーデザイナーで画家。F.I.T.(ニューヨーク州立ファッション工科大学)のフォトショップのクラスの同級生だった。

1990年代の中頃、フォトショップで画像を加工しても、高画質に印刷する技術がなかった。印刷できないのだから、作品をつくる必要のあるアートスクールの生徒には役に立たない。しかし、そこには未来に対する投資という意味合いがあった。

ニューヨークの若者はそう言った意味での「未来」にとても敏感だったように思う。例えば、 隣のHTMLのクラスでは、ヴィジュアル的に複雑で、とても見栄えの良い、しかも電話線接続では、見られないような「重い」サイトをつくっている学生がいた。その当時、インターネットの接続は電話線接続以外になかった。要するに「重すぎて」、見られない。意味をなさないサイトだった。今考えると、彼らは、未来のためにサイトを作っていたようなものだ。

私たちのフォトショップのクラスでは、SyQuest とか言う44MBのVHSビデオカセットのような巨大なメモリーカセットを持参するのが必須だった。今では、あのメモリーカセットの百分の一ぐらいの大きさのUSBメモリースティックの中に、数千倍の情報を書き込む事もできるだろう。コンピューター関連の時代の進歩は本当にめざましい。

[ヴェネチアンマントを羽織るHELEMAI]

エストニアという国

フォトショップのクラスで隣に座っていたHELEMAIは、自分の絵画の作品をスキャンして、ケラケラ笑いながら画像加工を楽しんでいた。それがまた、常に芸術的に形になっていたのが印象的だった。

F.I.T.には、クラス以外の時間でもコンピュータールームにアクセスできるシステムがあって、まだ自分のコンピューターを持っていなかった私たちは、フォトショップの勉強がてら、よく遊びに行ったものだ。

ある日、コンピュータールームが閉まる時間になって追い出された後、HELEMAIと話しながら地下鉄の駅に向かっていた時に、彼女は自分がエストニア人だと教えてくれた。私は「エストニア?」と聞き返した。聞いた事もない国だったからだ。彼女は、 「フィンランドの隣の国なの」と答えた。

 「フィンランドの隣にそんな国があったっけ???」と私は地理の授業を思い出そうとしたが、なにも思い出せなかった。それもそのはず、そんな国は私の教科書には書いていなかったからだ。

「旧ソビエト連邦」と言ってくれればすぐにわかったのだが、彼女は、感情的に、そうは言いたくない事情があったのだ。サンクトペテルブルグの美術学校を卒業した後、1980年代後半に、幼児の美術教師としてアメリカに招かれた。ソビエト人として、アメリカに入国したわけだが、政情不安定な国の出身者の為の特別ビサで、アメリカ滞在の延長が許された。共産圏からアメリカに来るのはとても難しい時代だったが、芸術家としての自由を求めて、色々な手を尽くした。もちろん、ソビエト人がアメリカに滞在する方法など、どこにも書いていなかった。ソビエト併合以前のいわゆる旧エストニア人同士が助け合って、耳で聞いた情報だけを頼りに手探り状態な生活だったと言う。

エストニアは最初にソビエトから独立しようとしていた国だった。元々、言語も民族も文化も、ロシアよりもフィンランドに近く、知的レベルも高い国だったそうだ。タリン音楽祭で国家独立を示唆する歌を大合唱して、それから独立運動がはじまった。禁止されている歌を歌う事が彼らの意思を表していた。6万人で歌えば、ソビエト警察も全員を逮捕するわけにはいかない。歌う事が、エストニア人が得た最初の自由だった。 ソビエト政府の暴力的な武力に対して、エストニア人の独立運動は「歌う革命」と呼ばれた。しかし、その独立運動が、ソビエト政府を逆なでしてしまい、1991年、ソビエトが本格的な軍隊を引き連れて、エストニアを占拠した。そしてすべての独立運動もソビエト軍の圧倒的な武力によって鎮圧された。札幌市の人口よりも少ないエストニア人135万人の独立運動を根こそぎにつぶす事など、アメリカと武力を争っていたソビエトにとってみれば簡単な事だった。

父の愛情

その混乱の中、HLEMAIの父は、彼女に電話連絡をしてきた。「絶対にこの国には帰ってこないように。以前の様に、またロシア人によって、すべての自由が奪われてしまった。もう一生、会えないかもしれない。でも、お前はアメリカに留まるんだぞ!」彼女は初めて父の泣き崩れる声を聞いたと言う。

そして、しばらくしてゴルバチョフの行方が分からなくなり、その数日後には突然ソビエト連邦が崩壊した。 後になって考えてみると、エストニア占拠も、ソビエト崩壊途上の軍の最後の悪あがきだったとわかった。結果、エストニアが国の独立を勝ち取ったわけだ。HELEMAIの話で、「国が崩壊したり、独立を勝ち取ったりする」生の声を初めて聞いた。それはニュースや歴史の話ではなくて、一人一人の人間のストーリーに大きく影響するものなのだ。

コンピュータールームから地下鉄の駅に向かう途中、彼女が私に「エストニア人」だと名乗った時、彼女の脳裏には様々な事がよぎっていたはずだ。元ソビエト人の彼女は、今でもロシア語が聞こえてきても、知らない振りをするのだと言う。それほどに、ロシア人と一緒にして欲しくないという想いが強いのだ。

笑顔とは

HELEMAIがニューヨークからミラノに遊びにきた時、ミラノ唯一のデパート、リナシェンテのジュエリーコーナーで、偶然の彼女の作品を見つけた。一階の香水売り場の隣のジュエリーコーナーをみつけて、吸い寄せられる様に行ってみると、彼女がデザインを担当しているブランドが大きく店を構えていた。「この角のガラスケースの中、全部、私のデザイン」と言ってケラケラ嬉しそうに笑っていた。

彼女がデザインするジュエリーは、世界中で見る事ができるはずだ。アメリカンドリームをつかんだと行っても過言ではない。

ただ、彼女にアメリカンドリームという言葉は似合わない。純粋に普通の幸福を求めて、その時その時を必死に生きて来たような感じなのだ。

HELEMAIは、私に「笑顔」の重要さを教えてくれた。まず、彼女が笑顔を振りまくと、周りまでが笑顔で満たされる。幸福は「心の状態」であって、必要条件などないのだろう。笑顔のコツは、どんな状況でも何らかの幸福を見つければ良いだけなのだそうだ。実践は難しいかもしれないが、聞くだけなら、なんと簡単な事なのだろう!!!

「厳しい人生」と「純粋な笑顔」。HELEMAIに会ってから、その関係性を考えるようになった。

実際、周りを見ていて、純粋な笑顔を持っている人は、他人の痛みを分かる人で、しかも、その痛みを乗り越えてきた様な人に多いと思うのだが、どうだろう。