Wednesday, March 23, 2011

ミラノ大聖堂での天使の出陣式


大聖堂で聞く「兎追いし、かの山」
3月20日の日曜日、ミラノの大聖堂にて、「日本の震災の被害を受けて亡くなられた方々の冥福を、また生き残された方々の対応力の恵みを祈るためのミサ」が行われた。カトリック教徒にとって、今は、カーニバル(謝肉祭)後、イースター(復活祭)前で、信仰生活において、クリスマス以上に最も重要な時期とされる。そんな時に枢機卿でもあるミラノ大司教が日本の為にミサを捧げると言うのだ。

 
(祭壇前には「平安」と書かれ、焼香中には合唱団が「ふるさと」を)

私が着いた頃にはすでに満席で、ミサははじまりつつあった。みんな静かに座っていた。私は、カメラを持って歩き回る事にした。教会内のいくつかの小さなバリケードを通過。無事、報道陣のいるエリアにもたどり着けた。祭壇に掲げられていた書の「平安」の意味がなにか?とすぐに隣の新聞記者に質問された。最前列には、ミラノ市長やミラノ日本総領事の姿が見えた。

(お焼香に並ぶ日本人など関係者の列)

まず、仏教のお葬式などで行われる「お焼香」の列に驚いた。カトリックの教会でも、お香は使う。しかし、普通は、神父がメタルの球形の香炉にお香と炭をいれて、それをチェーンにつけて振り回すような形で焚かれる。信者が列をつくって、「お焼香」と言うのはありえない。カトリック信者以外の日本人も「祈りを形に出来るように」と言う粋な計らいと思われる。日本に長く住んだ事のある神父さんのアイディアに違いない。しかし、カトリック教会も、なかなか柔軟な対応だった。さすがイタリア、ラテンの地。

お焼香の間、合唱団が文部省唱歌の「ふるさと」を歌いだした。日本人ならば、それぞれが、自分の日本の故郷を思い出したであろう。望郷の想いと震災への祈りが重なって、心に突き刺さった。涙を流している日本人も少なくなかった。

兎追ひし かの山
小鮒(こぶな)釣りし かの川
夢は今も めぐりて
忘れがたき 故郷(ふるさと)

想い出の故郷が津波で流されてしまった友人も参列していた。そんな痛みを、できることなら少しでも分かち合いたい。日本人もミラネーゼも、そんな気持ちだったに違いない。

(無心で祈るミラノ大司教)

ロジックの違い
世界中が日本を助けたいと思っている。この一週間、たくさんの友人が電話やメールで声をかけてくれた。道で会うだけの近所の人でさえ、家のベルを鳴らしてくれて、「助けられる事があれば言って欲しい」と言ってきた。我々が思っている以上に彼らは、今、日本の事を思ってくれている。そんな世界の想いに答える方法は、唯一、その助けを素直に受け入れる事だと私は思う。

日本の様に、「お返しが大変だから、助けを求めない」というロジックはキリスト教圏にはない。無礼かもしれないのだが、ロジックとして「返す」必要がないのだ。

例えば、ストリートで人の写真を撮っていた時、日本のホームレスが恵みを乞う事が、まずないのに対し、こちらでは堂々と助けてくれと手を差し出してくる。「返す」必要がないのだから、助けられる事に対しての照れがない。慈善活動はイメージアップのためになされるとも限らない。ホームレスを助けたって、何の得にもならないのに、それは日常の小さな慈善として、さりげなくなされる。

キリスト教徒が差し出した時は、いわゆる「お返し」はあまり期待していない。むしろ「友情や連帯感という見えない見返り」が欲しい場合が多いだろう。日本人は偽善と呼ぶだろう、滅私奉公ではなくて、それは助けたいと言う欲でもあり、なにより連帯感と言う見返りの方が、心理的な距離感として、うざいと感じるのかもしれない。このロジックの差は、あまりに大きく唖然としてしまうぐらいだ。


(ミラノ日本総領事と枢機卿の握手)
 
友のために命を捧げる、これ以上の愛はない
原発の事故が起こった直後、日本政府は様々な支援を断ったと言う記事を読んだ。米国軍は、無人の飛行機がクリアーな写真を取り、無人の放水設備が核を冷やすことも出来るのだと言う。フランスのサイトは福島の原発に関して、日本語で発信しはじめた。ロシアのラジオでは、日本政府は決めるのに5分で済む事に、様々な委員会を設立して決めようとしていると呆れているそうだ。各国からのガイガーカウンターの寄付を、政府機関が税関で断っているとも言う。支援の受け入れ先の検討などに何日も費やし、時期尚早と返事をしていると言うのもあった。これでは、助けたいにも、助けられない。ただ、そんな間にも、大げさに言えば、今この瞬間でも、現場では作業員が被曝しているのだ。

一刻を争う有事の時は、みんなと話し合いをしている場合ではない。リーダーは自分の責任で即刻決めるベきだろう。国家レベルの厄介でうざい友情(?)も、白旗を出して受け入れるべきなのではないか?

相対的に現場で活躍する無名の志士達の行動力と良心が浮かび上がって来てしまう。今でもずっと、自己犠牲して原発で事態の改善に当っている。海外メディアが、かなりの悲観論を唱えていた時、この無名の志士達の活躍は想定外だったのかもしれない。カミカゼ的な自己犠牲の精神が、現代の豊かな日本に残っているとは思っていなかったはずだ。その想定外な活躍のおかげもあって、海外メディアが予想した様な悲観的な事態には、今の所、まだ至っていない。

「友のために命を捧げる、これ以上の愛はない」とキリストが言った事を、このミサで神父が触れていた。我々は無名の志士の功績に対し、どう感謝すれば良いのか?

「決死」以外の方法は?
しかし、この「決死」の作業と言うのを避ける方法はないのだろうか?我々は、この名もない作業員に頼りすぎてはいないだろうか?原発で寝泊まりする彼らは毎日確実に被爆している事だろう。「決死」という日本人のロマンを避けるべく、人道的な方法を本当に探しているのだろうか?

原発事故に関し、申し出ている国の支援を、なぜ、ただちに受けないのか?国際世論は、日本政府の情報隠蔽に苛立っている。原発関連の情報発信の少なさに首をかしげている所なのだ。世界のスペシャリストは更なる情報開示を待っている。世界の知恵を結集するべきなのではないか?

海外支援を受けると、今後の日本の原発輸出の国家プロジェクトに不利になると言う。しかし、そんな場合ではないのではないか?決して、予断の許す状態ではないと言うのが実際の状態であり、ノラリクラリの戦略では、放射能が水や土に染み込んで行く事もあるだろう。そうなると、元々狭い国土に、何万年も死の土地ができてしまう可能性もある。今回はいさぎよく「負けて」、他にも助けを求めて、国民と国土を守るべきではないか?


(ミラネーゼでドゥオモ教会が満席になった) 

天使の出陣式
一部の被災地では土葬がはじまったと言う。 火葬が一般的な日本では馴染みのない習慣である。火葬場も遺体安置所も間に合わないらしく、首長が決めたそうだ。今回の災害の大きさを物語っている。安らかな眠りに着く事を祈るばかりだ。

生き残った被災者も、まだ悲惨な状況にあると言う。ネット上だと、海外の新聞社サイトの写真が、苦々しくも饒舌に物語ってくれた。避難所の生活や救助活動を、一歩ひいた目線で撮った写真がセレクトされており、この際、外国人の冷静で遠慮のない客観報道を見る価値があると思われる。

東京も全然普通には機能していないと言うし、ここ数日は水道の水も乳児には飲ませないようにとの事だ。余震も、ずっと続いているらしい。

ところで、ミサのお焼香の最中には煙りが大聖堂内部を覆った。その煙にみんな、見とれていた。後で聞いたのだか、その煙の中に天使がいたと言う。あのミサは、天使の出陣式だったのだ。イタリアの天使が日本に向かっている。

届け、ミラノからの祈り。

 
 


Tuesday, March 22, 2011

震災とインタビュー


ミサの告知記事の隣に
震災について、カトリック系の新聞のインタビューの受けた。被災者でもないので、私には語る資格などないようにも一瞬思えたのだが、とにかく在ミラノカトリック教徒の日本人に日本の話を是非とも聞きたいと言う事だったので、喜んで協力した。

インタビューなので、自分の意見などは多少、封印し、ひたすら質問に答える事にした。多少の脱線は記事に動きを与える事があるものの、大きく脱線し過ぎても書けない事が多い。3月20日の日曜日にはDUOMO(ミラノの大聖堂)で、震災の日本人の為に祈るミサが予定されていた。私もジャーナリズムに関わるゆえ、そのミサの告知記事の隣辺りに私の記事が来る事も何となく予想できた。
 
(3月20日版のAvvenire。Giapponese(日本人)の文字が。
ミサをの告知と、私のインタビュー記事)


家が津波で流された友人の家族の話や、暖房や食料もままならないのに、被災地で風邪を引いている友人の話をした。日本は豊かな国だが、今、日本は現実的な助けを必要としているのだ。

私は、遠くミラノに住んでいて、震災には関係ないようだが、仕事や用事のない時間はすべて震災関連のニュースをネットで集めている。海外ニュースと国内ニュースで温度差があり、その差の理由などを、またネット上で漂流して探すといった具合だ。のめり込みすぎて、吐き気を感じたりする事もある。共感疲労と呼ぶらしい。記事のタイトルには、「Sto male , ma devo essere forte (具合が悪くなったりもするけど、しっかりしなくてはならない)」と書いてあった。

日本人全員で倒れるわけにはいかない。被災者ではない私たちはなんらかの形でサポートに関わらなくてはならないのだから。

東京の友人達が、なるべくいつも通りに働こうとしていると言う話は、とてもリアルに感じたようだ。海外トップニュースは、津波や地震のハイライトが多いからだろう。現時点で東京が止まってしまったら、日本全体が止まってしまう。 みんなパニックを起こさない様に、落ち着いて暮らす様に心がけているはずだが、「きっと心の中では心配などが募っていると思う」と私は自分の想像で勝手に答えた。そんな自分の弱さもさらけ出すのが、カトリックの教えなので、私はついそんな風に答えてしまったのかもしれない。

インタービューの日は静岡でも地震があったばかりで、それについても触れる事となった。私は、その日、ネット上で震源地の地図と日本の地図を重ねたものを見た。震源地は、ほぼ富士山だった。「富士山を震源」と言わず、「静岡県で強い地震がありました」と伝えるニュースに、私は却って不安になってしまった。富士山は地理的にも日本の中心だが、精神的にも中心だから、富士山はぜひとも無事であって欲しい。静岡県には浜岡原発もある。

原発についてはとりあえず一行
原発については、そのテーマだけで、イタリアでもゴールデンタイムに1時間程の特別TV番組を組むぐらいの大問題と捉えられている。だから、この記事では深く入るのを避けたのだろう。「体を張って働いている無名の志士に、我々は祈りを向けている」事が、一行触れられていただけだった。原発に関してはヨーロッパの世論が、大きく揺れ初めている。地球温暖化問題と原発推進は両輪で連動していただけに、これからも議論が続くだろう。

日本人なら、この苦難を超えられる。そう、みんな思っている。神は超えられない苦難など与えないのだから。でも、今、我々は助けを必要としている。そして、世界は日本の事を助けたいと思っているのだ。カトリック系の新聞社も、私へのインタビューでそれを再確認したかったのだろう。どう助けたら良いのかは、彼らもオファーしてくるだろうし、我々から頼んでも良い。もう、具体的な方法を探りはじめている段階に来ている。

記事が新聞が載った日、ミラノ郊外の教会の見知らぬ神父から早速メールが来た。日本のコミュニティーと対話を持ちたいという申し込みだった。

何かと忙しくなりそうだ。もしかすると、震災の影響で日本の媒体の仕事は減るかもしれない。それは、ちょうど良い。「日本の文化とか、今の状況とか、じっくり対話してやろうじゃないか。。。」ついでに、募金も集めてこよう。

イタリア人の日本への興味は、ここ数年かなりのものだ。空前の日本食ブーム、おしゃれなクールジャパン、教育水準の高さ、他人を尊重する態度。それに震災で見せた落ち着きとカミカゼ魂、、、、興味がつきないのだろう。

今朝は、電話で起こされてチャリティー美術展覧会の企画の連絡があった。メールにはテレビ局がインタビューに答える日本人を探していると言うメッセージが。。。

海外在住17年。たまにしか帰国もしないけど、日本人として産まれた自分に相変わらず感謝。


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