Thursday, December 20, 2012

行方不明の友人、聞こえて来た声


同窓会にこないS

私が卒業した大学は、伝統的に海外志向が強いことで知られる。海外の大都市には、たいてい同窓会組織があり、私が住むミラノでも、時折ながら会合が開かれる。最近の傾向としては、若い人なども遠慮なく参加する事だろう。それぞれの属する世界の裏話などで盛り上がり、知見や友人の輪を広めるようなものとなっている。先輩に対する大げさなお酌などは必要ない。

その年の会合は、日本的に言えば、忘年会シーズンに行われた。ミラノの冬は、空気が湿っているせいで太陽の光も届きにくく、暗く寒い。考えようによると、みんながどこかに集まって、美味しいご飯でも食べたり、お酒を酌み交わすには最高の季節とも言える。スカラ座のオペラシーズンが冬なのも、うなずける。こんな冬でも、せめて楽しくやろうよ!と言うミラネーゼの心意気なのだ。

霧のミラノ。Vittorio Emanuele通り。光が柔らかい。


このシーズンに抵抗力の落ちる事もある私はその年の忘年会シーズンは、疲れ目が極限に達していたせいか結膜炎気味に目が赤く充血していた。撮影での目の酷使と、コンピュータースクリーンのバックライトが疲れ目に追い打ちをかける。目薬を差しても、目の前が霞んで良くは見えなかったのをよく覚えている。

その忘年会を兼ねた同窓会は、いつもの中華レストランでのいつもながらの雰囲気だったのだが、ひとつ不可解な事があった。出席するはずのSが来ていなかったのだ。割と律儀な性格のSの事だから、来ないなら携帯で連絡をよこすはずなのだが。。。同窓会の途中に、何度が電話をしてみたが、返事もなし。不思議な事もあるものだ。まあ、そのうち何か言ってくるだろうと、あまり気にせずにいた。


ルームメートからの電話

次の日の朝、、、Sのルームメートからの電話のベルで飛び起きた。Sが行方不明だと言う。いつもは、おおよその帰宅時間なども伝えるSだっただけに、数日帰ってこないのは、絶対に何かがおかしいという話だった。

確かに、それはおかしい。出席予定だった同窓会に無言で来ないのも不思議としか言いようがなかったのだ。

バイオリン制作をミラノで学ぶS。彼の主な行動範囲は、バイオリン制作の学校、師匠の工房とアパート。彼のルームメートを中心にして、学校の先生や友人達、我々同窓会の仲間達で、知恵を出し合い手分けして情報などを集める事とした。

同窓会メンバーの意見で、警察への捜索願いだけでなく、在ミラノ日本領事館にも行方不明捜索願を出そうと言う事になった。それで日本の両親にも連絡が行く事になるだろう。ここは、「なるべく心配をかけない様に」などと心遣いをしている場面ではない。どんな手を使ってでも探す事が先決だろう。

まずは、共通の友人達に電話をかけまくった。Sの最近の様子、最後に会ったのはいつか?できるかぎり、様々な人たちと話した。しばらくすると、電話が熱くて持てなくなるくらいに加熱していた。だが、特別に不思議な様子は、何一つ見当たらなかった。

ただ、彼のブログには、「最近、イタリアの銀行の口座関連で厄介な事に巻き込まれている」と書かれていた。東欧の都市で現金が勝手に引き出されていたりしていて、その対応に追われているという事だった。

同窓会の先輩は、ルームメートにSの部屋へ入って、コンピューターのEメールの内容なども見てもらう様に提案した。まず分かったのは、Sの携帯電話が部屋にあったと言う事だった。私たちが、いくら彼に電話してもつながらなかったわけだ。部屋はいつも通り雑然としていて、片付けられていた様子はなかったと言う。コンピューターのメールのやりとりなども調べてみたのだが、特別な内容はなかった。

 Sに修復してもらった私の祖父のバイオリン。
バイオリン制作者はイタリア語では「Liutaio」と呼ばれ、
ビオラ、チェロ、ベースなどの弦楽器全般の制作と、古い弦楽器の修理修復が仕事となる。


行方不明、考えられるあゆる可能性

どんな可能性があるのだろうか?ルームメートや、同窓会メンバーと話した。

まずは自殺の可能性。私はそれはないと思ったのだが、人の内面は分からないものだと説得されると、確かにそうかもしれないとも思えて来たのだった。

北朝鮮の拉致。Sは元々、理工学部の卒業で、カメラメーカーで精密機械の設計をしていた。西洋芸術にも通じているインテリで、今やバイオリン制作者になろうとしている。ある意味では変わり種でもあり、北朝鮮などにとっては、マルチに使える人材なのかもしれない。可能性がないとは言い切れない。

なんらかの理由で病院に運ばれている可能性。または、なにかの事故で死亡してしまった可能性。いくつあるかわからないミラノ市内の病院などをしらみつぶしに探して歩くのは、現実的に無理で、何週間もかかるだろう。それよりも、警察と領事館に捜索願いを出しているので、もしそうならすぐに出て来ても良いはずだった。

他殺。例えば、ルームメートなどが殺人鬼で、押し入れに死体遺棄されているとか。。。

駆け落ち?まあ、それなら良いのだか、そんな粋な奴だったのだろうか?

そして、彼のブログに書いてあったイタリアの銀行口座が、東欧で引き落とされていると言う事件に本格的に巻き込まれた可能性。東欧マフィアによる誘拐など。

こういう時は、すべての可能性を考えてしまう。そして、どの可能性も、まったく否定する事はできなかった。インターネットで、「海外 行方不明」と検索すると沢山のページがでてきた。毎年、数百名の日本人が海外で行方不明になっていて、その大部分は未解決のままだと言う。Sも、そんな日本人の一人になってしまうのだろうか?

なんの手がかりもつかめないまま、時間が過ぎていった。Sが行方不明になって、数日後の日曜日は、日本人学校で毎年12月に行われる年一回のお祭り「La Festa」があった。それは、お茶、尺八、折り紙、書道などの日本の文化や、餅つきやお団子、おでん、お弁当などの食文化にも触れようと、在ミラノの日本人や、親日のイタリア人が大勢来るイベントだった。一度も行った事のないそのイベントにも、初めて訪れてみた。たくさんの日本人の友人とすれ違った。なにかSの手がかりはないかと各友人に聞いてみたのだが、新しい情報はなかった。ただ、たくさんの人が行方不明の事をすでに知っていて心配していた。無事を祈願して、祈りを捧げていると言う話も聞いた。日本人のコミュニティーというのは、普段から、そんなに強い結びつきがあるわけではない。でも実は、我々海外在住者にとって、日本人の友人と言うだけで、お互いをとても近いと感じている事も分かった。Sの行方不明についても、人ごとではない出来事として、みんな親身に思っている様子だった。思えば、家族や親戚もいなく、単身で来ている人も圧倒的に多いわけで、いざと言う時に頼れるのは、同郷人である場合も多い事だろう。

Sのアパートに立ち寄ると、同窓会のメンバーの一人も来ていた。ルームメートは、自分の携帯とSの携帯を持ち、ひっきりなしになる電話を、2丁拳銃のように両手で対応していた。その丁寧で心のこもった対応に、彼の人柄を見る様な気がした。一つの可能性が消えた。このルームメートが殺人鬼なわけがない。そして、確かにSの部屋の中は散らかっており、自殺の可能性もないと私は踏んだ。自殺するなら、もう少し整理する事だろう。あと、私の知っている限りのSは、思慮深くとも、思い詰めるタイプではない。

Sが行方不明になってから数日は、スパイ映画の登場人物の様に考えられるすべての可能性を想定しなければならなかった。脳みそのいつもと違う場所を使っているのが、自分でも手に取るように分かった。それは、私の中のなにかが特別に冴えてくるような感覚でもあり、それからくる疲労感は、肉体でも精神でもなく、もっと全体的というか、いつもと違う不思議なものだった。

結膜炎気味の疲れ目に目薬を差しても、光が強いと眩しすぎてよく見えない状態が続いていたのだが、なんとなくミラノ市内をクルマで走らせてみた。そして、カトリックの勉強を私に授けてくれた、シスターマリアの所に向かった。彼女は日本に20年近く住んだ事のあるカトリックの修道女で、ミラノの修道院で日本語とイタリア語を対比しながら聖書の勉強会をしたり、日本語のミサを企画したりしている。修道院の敷地内はミラノの中心部にありながら、完全な静寂につつまれており、独特な雰囲気がある。お御堂では、いつも世の平和を願う修道女達が、人生のすべてをかけて祈りを捧げている。Sはバイオリン制作を学ぶ身で、バイオリンやビオラなどを奏でる事ができた。彼自身はカトリック信者という訳ではなかったのだが、友人の輪のつながりで、クリスマスの日本語ミサなどで弾いてくれた事があった。それでシスターマリアもSの事をよく知っていたのだ。あと、私もいつもと違う疲労を感じていた事もあり、そんな修道院に行って一息つきたいという思いもあった。シスターマリアはいつもの笑顔で迎えてくれたのだが、Sの行方不明の話も、まったくうろたえる事なく、真剣に聞いてくれた。修道女と言うのは、意外に血なまぐさい話にも慣れているのだ。独裁者や軍部が支配する国などに派遣されている修道女仲間とは暗号でコンタクトを取りながら、なんらかの救済を試みている話も聞いた事があった。一部の修道女は世の闇にも、それなりに詳しいものなのだ。一通り聞いて、東欧マフィアはかなり質が悪いという話にも及んだ。「いずれにしても、祈っておきますから」と言ってくれた。祈りのプロフェッショナルの言葉に、なんとも心強いモノを感じた。

 
朝霧の電車通り。
ミラノの電車の線路は、車道を共有する。
線路の上はクルマのタイヤが滑りやすいので、とても注意して運転しなくてはならない。


先輩との電話を切った後、、、聞こえてきた

私達がそれまでに集めたすべての情報をつなぎ合わせると、行方不明になった日の夕方に韓国人の女性のクラスメートが、Sが学校から家に帰る様子をバス停で見かけたのが、彼に関する最後の情報だった。学校がVia Ripamonti、家がPiazza Napoliの近くなので、その日の彼の行動範囲はミラノ市内の南部。普通の住宅街が続く何の変哲もない地域なはずなのだが。。。しかし、一体何が起こったのだろうか?

その日曜の夜の9時頃、同窓会の先輩と電話で話した。「いち外国人の私達が警察に捜索願いをだした所で、真剣に警察が動くとは思えない。日本の外務省からイタリアの総務省へ掛け合ってもらう方向性で、私たちも動いた方が良いのではないか?それこそ、同窓会組織には外交官もいることだろう」。数日前の同窓会の和やかな会合からは、想像もできないような殺伐とした話の内容だった。そして、会話の最後に、その先輩から「仁木さんって、そう言えばちょっとした霊感がありますよね?どうですか?」と質問をうけた。私は確かにシンクロニシティー(偶然の一致)が頻繁に起こったり、自分が光に包まれるのを見たり、夢などで具体的な言葉や地名などのメッセージを受けとる事はあった。だが、お化けが見えたり、彼らと話したり、人の前世や未来をズバリと言い当てる様な世間一般の霊感とは違うものだった。いわゆる人を驚かす様な当てものではないのだ。「いや、そういう霊感じゃないんすよね」と言って、まずは電話を切った。

その後「んー、霊感ねえ」と想いながら、何となく居ても立っても居られないような感覚に襲われた。心のこもった対応をしていたルームメート、多分日本で何がなんだか分からないまま心配をなさっているご両親、そして我々ミラノの友人達の無事を祈る気持ちが尊く感じた。そして、悪気のない、人間の良心のエネルギーのカタマリの様なモノが私の中に入り込んで来た。そのパワーが私を突き動かしはじめた。

先輩との電話を切った後、「Niguarda」というミラノ市の北はずれの地名が聞こえるような気がしていた。それは音として「ニグアルダ」と聞こえるようでもあり、文字としてフラッシュバックのように「Niguarda」と見えるようでもあり。。。

例えば、バナナを仕事帰りに買わなければならないとしよう。忘れないように、「バナナ」という音を耳の中で反復してみたり、「BANANA」という文字列を頭の中で考えたり、あるいは「黄色いバナナ」を絵として思い返したりする事だろう。受験の勉強などでも何かを覚えようとする時は、そんな感じで脳の中で反復しながら覚えたはずだ。

とにかく、そんな感じで、「Niguarda」という声が、私の意思とは関係ないところで、頭の中で勝手に反復していた。しばらくすると、それがうるさいぐらいに、こだましてきた。しかし、確かNiguardaと言うのはミラノの北の地域なはずで、Sの行動範囲はミラノの南なので、まったく逆方向だった。理性的にはあり得ないと思ったのだが、興奮状態で体が勝手に動いた。

この「Niguarda」と言うのは一体なんだんだ。。。「なんて自分はバカなんだろう、そんな事あるわけないのに」と思いつつもコンピュターの前に座り、スペルもよく知らないのにも関わらず、適当に検索エンジンに「Niguarda」の文字を入れてみた。トップにはNiguarda地区の病院のウェブサイトが出て来た。そう言えば、高速道路を降りてミラノ市内に向かっている時などに、病院のマークにNiguardaと書いた標識を見た事があった。Niguarda地区には大きな病院があるのだろう。そして、そのサイトを見てみると、探すまでもなく、すぐに救急病棟の電話番号が目に飛び込んで来た。
Niguarda病院の標識

そういえば、救急車でボランティアをしている友人が、病状によっては、病院の得意不得意があり、遠くの病院に運ぶ事もたまにあると言っていたのも思い出した。しかし、病院なら警察か領事館が、まず最初に調べてくれているはずなのだが。。。

様々な思いや考えがよぎったものの、イチかバチか。とにかく、その勢いで救急病棟の電話番号に電話してみた。
「自分の友人が行方不明なので、ここ数日の間、探している。もしかしたら、そちらの病院に運ばれているかもしれないので、調べてもらえないか?」
私の興奮とは裏腹に、電話の向こうでは、極めて普通の軽い感じの事務的な応対だった。

そして、Sの名前を口頭で伝えると、なんと「その名前なら木曜日の夕方に、ここの病院に運ばれて来たって記録があるよ」と言う。私の興奮がピークに達した。Sは、ちょうど木曜から行方不明だったのだった。「で、彼は今どうしてるかわかりますか?生きてるのか、死んでるのか?今、どこにいるのか?」と聞くと、「明日の朝にまた電話してくれる?」とそっけない返事だった。もう夜9時過ぎで病院自体は閉まっているし、救急以外は時間外だから、そういう特別な対応はできないらしい。

しかし、糸口はつかめたのだ。興奮が冷めないまま、すぐに先輩に電話した。「そういう霊感じゃないんすよね」と言って電話を切ってから、15分も経っていなかっただろう。いつも冷静な先輩もその時ばかりは「えー、すごいですね」と声をあげた。「この場面は、日本領事館に連絡するべきだろう」との先輩の即座の判断で、担当外交官にすぐに連絡する事になった。あとは、外交官が、なんとか調べてくれるはずだ。

そして、一時間もしないうちに、外交官が病院に行ってSの無事を確認してくれて、私達にも連絡が来た。外交官には特別なアクセス権のようなモノがあるらしい。病院が閉まっている日曜の夜だったにも関わらず、Sが寝ていたNiguarda病院の集中治療室まで行って、外交官の携帯電話から直接日本の実家にも電話をして、S自身の声で無事を伝えたと言う。事故に巻き込まれ、右側の肋骨を10カ所折っているものの、内蔵も頭にも全くダメージはなく、まったく命に別状はないと言う事だった。

まずはバスタブに湯を張り、体を暖める事にした。それは、今までに感じた事のない種類の疲労感だった。人間は普段、自分たちの脳の数パーセントしか使っていないと聞く。我々の普段の生活は、多分、脳みその同じ場所ばかりを使って、グルグルとリピートしながら生きているのだ。その数日間は、普段は使っていない脳みその箇所が作動していたようだ。スパイ映画の様な推理するための脳、そして、直観霊感の脳。オーバーヒートしそうな感じだった。

バスタブからあがり、Eメールをチェックすると修道女シスターマリアからメッセージが来ていた。「夕飯の後、修道院のシスター全員50人ぐらいで、S君のためにお祈りとマリア様の歌を捧げておきました。彼の無事を心から祈っています。なんらかの奇跡が起きますように」という内容だった。

私は、興味本位ながら、「シスター、何時頃に祈ってくれたのですか?」と聞いてみた。「夕食の後だから9時ちょっと過ぎかしら」という答えだった。ちょうど「Niguarda」という声がこだましてきて、私が興奮しながらネットで調べたり、電話をかけたりした時間と一致していた。

先輩の霊感に対する質問と、みんなの良心と、シスター達の聖母マリアへの祈りと、色んな事が味方をしてくれて、私の直観が作動したのだろう。「Niguarda」という声を聞いた通り、Sはその地域の病院にいたのだった。いくつあるか分からない病院をしらみつぶしに電話したのではなく、一本目の電話で彼の居場所を探す出す事ができた。普段の私には、こんな能力はない。


シスター達に、あの日に歌ってくれたアヴェマリアを再現してもらった。
マリアバンビーナ修道院。


Sの良心から出た行為

翌朝、面会時間の少し前に病院に着いた。集中治療室の入り口には、すでにSの携帯電話を手にしたルームメートが来ていた。集中治療室と言うからには、Sの怪我もどんな状態なのか、まったくわからない。包帯でグルグル巻きになっているかもしれない。元来、病人や病院が苦手なので、色々と想像してしまった。

面会時間がはじまってすぐ、ルームメートと集中治療室に向かった。思ったよりも元気そうなSの姿があった。麻酔で頭が多少ボーとしている感じはあるもの意識も普通な感じだった。

雨の日にクルマの車窓から撮った。
湿気のせいでガラスがくもって、よく見えない。

学校から帰る途中、冬の雨が降りしきるPiazza Napoliの十字路で乗り換えのバスを待っていた時に、Sの目の前で交通事故が起こったと言う。Sは雨で濡れる混乱した事故現場の整理を手伝い、事故で倒れていたバイクを立て直そうとしていた。その時に別のクルマが十字路に入って来て、Sの近くまで飛び込んで来た瞬間までは覚えているとの事だった。事故現場で渋滞が起こり、そのイライラがまた別の事故を起こしたと言う事らしい。結局は、救急車が4台も駆けつける大事故だったそうだ。その日偶然、携帯電話を家に忘れたせいで、誰にも連絡ができず。。。バイオリン製作の学校くらいは、調べれば電話番号も簡単に出てくるだろうと考え、看護師やドクターに連絡を取りたいと交渉を試みたそうだ。ただ、集中治療室で麻酔が効いている病人が寝ぼけた感じで言っていたので、「まあそれよりも、今はゆっくり休め」と言う感じだったそうだ。加えて身分証明書を持ってなかった為、名前を聞かれて口頭で答えたのだが、日本人の名前なので最初の記録はスペルが間違っていたとの事だった。それで警察や領事館が探せだせなかったのかもしれない。私が電話した時にはスペルを直した後だったのか、もしくは、彼が運ばれた救急病棟にピンポイントで、しかも口頭で聞いたために、スペルミスがあっても探し出せたのかもしれない。Sの名前を発音する時に、私もS同様に日本語訛りで発音したのが、効を奏した可能性もある。。。いずれにしてもSは生きていた。しかも、淡々と現実を受け入れていて、想像以上にしっかりしていた。

色々と話している間に昼食の時間になった。「イタリアの病院食は意外に美味いんだよ。イテテ。ちょっと手伝ってくれる?」と、Sがノン気な感じで言った。

その頃には、私の結膜炎気味の疲れ目の充血も完全に直っていた。

Sが事故にあった状況は、目の前で起きた事故に手を差し出していたと言う人間の良心が元になっていた。事故そのものや怪我は大変な事だったとは言え、色んな意味で人間の良心がぐるりと一回転した様な出来事だったと、私は思っている。

退院した後は、マッサージなどのリハビリに励みながらも、バイオリン製作の修行を続けていた。あの頃、体の右側は疲れやすいと言っていた。そんな経験が、その後の制作活動や、バイオリンの音にどんな影響を与えるのだろうか?現在では、そんなミラノでの修行も無事に終え、日本でバイオリン工房を開いている。


偶然の意味を読む解く

「Niguarda」しかし、あの声は一体誰の声だったのだろうか?私は、あの声を発していたのは、聖母マリアだと思っている。以前、異次元の扉が開いた時、聖母マリアが話しているのを垣間みた事があった。ただ、その時は話の内容が分からなくて、悔しい思いをした。今回は一言とは言え、重要なメッセージをくれ、理解できた。そして、その声を聞いた同じ時間に、聖母マリアに捧げる祈りの歌「アヴェマリア」を修道女達50人程が歌ってくれていたと言うではないか?単なる偶然かもしれない。ただ、信仰とは、その偶然の意味を読み解くところからはじまる。もしくは、未来の科学は、こういう現象を論理的に説明している事だろう。とんだ災難にあったとは言え、こんなチャンスを私にくれたSにも感謝したい。

蛇足になってしまうかもしれないが、映画「スター・ウオーズ」で、師匠オビ=ワン・ケノービの「フォースを信じろ」という声を聞いて、ルーク・スカイウォーカーが戦闘機の照準装置をはずす闘いのシーンがある。それが幸いして、見事、ターゲットに命中する。僭越ながら、かつバカにされるのを覚悟で言うと、Sを探していた期間、私は疲れ目が結膜炎気味に充血していて、目がかすんでクリアに見えなかったのを、それになぞらえたい。写真という視覚芸術に携わりながらも、視覚や表層にとらわれていては、物事が的確に見えないという事もあるのではないか?我々は目を使いすぎているのかもしれない。五感どころか、第六感や祈りも駆使して物事を捉えなくてはならないのだろう。我々が普段見えている世界は、とても窮屈に限定された狭い視界にすぎないのかもしれないのだ。

Wednesday, September 26, 2012

楽園帰りを夢見る地中海の夏

バカンスでミラノが止まる8月

8月のミラノの人口は、どれぐらい減るのだろう?通りを行き交うクルマも少なく、異様な静けさが漂う。

ミラノでは桜の花が咲く春くらいから、「今年の夏はどうするの?」などという会話が飛び交う。気の合う仲間なら、「一緒に何かしようよ」という話や、他人の経験談がバカンスコンサルタントに発展する事もある。とにかく、会社員でも、平気で2~3週間ぐらいのバカンスに出てしまう。自由業の人や富裕層のバカンスは、もっと長い場合もあるだろう。
8月は、ミラノが止まってしまうと考えて良い。日本の元旦が、ひと月続くという感じだ。今でこそ8月でも営業しているスーパーマーケットは結構あるのだが、ひと昔前は、夏のミラノでは普通の暮らしをするのも大変な状態だったと聞く。

まあ、私の知る限りの周りのイタリア人の様子なのだが、バカンスに関しては強迫観念的なこだわりがあるようだ。「良いバカンスを送ることができなかったなら自分の価値がなくなってしまう」という恐怖感さえあるのではないか?バカンスなしではアイデンティティークライシスに陥ってしまうことだろう。要するに、バカンスを誰とどう過ごすかで自分と言う人間を表現し、自分の存在理由を再確認すると言った感じだ。加えて、ここぞとばかりの、見栄の貼りどころでもあるようだ。

 犬捨て防止を呼びかけるポスター。

ペットを捨ててまでバカンスに夢中

イタリアでは夏のバカンス前になると、銀行からバカンスローンで借金したり、クルマを売って資金をつくったり、ペットの犬を捨ててでもバカンスに行くらしい。借金をしたりクルマを売ってでも、と言うのはまだ可愛い話なのだが、「犬を捨ててでも」というのは信じがたいものがある。ペットと一緒に滞在できるバカンス先は限られており、それが無理な場合、本当に道端などに捨ててしまうとの事。
バカンス時期におけるイタリアの捨て犬は6万匹ともいわれ、社会現象にもなっている。市や政府などが「犬を捨てないように!」と言うキャンペーンを実施しており、街の至る所にポスターが貼ってあったりする。
バカンス文化をはたから見ると「人生を楽しむことを知っている地中海文化の優雅なライフスタイル」という風に映るだろう。実際にその通りの部分もあるだろうが、捨て犬の実情は、いささか度が過ぎている。バカンスへの執着は、私たちが想像以上のモノで、強迫観念にほかならないと思うのだ。
 

失楽園とバカンス

旧約聖書によると、アダムとイブが住んでいたエデンの楽園では働く必要もな く、なに不自由なく暮らしていた。キリスト教を信じるものにとっては、それこそが理想の生活であり、元来あるべき姿なのだ。蛇に誘惑されるまま、触れる事を禁じられていた知恵の木の実「リンゴ」を食べてしまい、彼らは楽園を追われた。この「失楽園」こそが、人類の原罪のルーツである。人類の苦悩はそこからはじまった。そして、働く必要性が出て来たのも、まさにそれが起源なのだ。
この聖書にある「楽園の想い出」と、現代イタリア人の「バカンス観」を、私は重ねて見ている。自分たちの遠い祖先と楽園への憧れが強迫観念になっていったのではないか。イタリア人は、8月のバカンスに先祖代々続くその想いを少しでも晴らそうと懸命なのだろう。 彼らにとっては、働かない状態こそが「元来あるべき姿」であって、そこに戻ろうと必死にもがいているような……。楽園帰りを夢見るキリスト教徒の夢。少なくとも、私にはそう見えるのだ。

ミラノからさほど遠くないリグーリア地方の海

とは言っても、便乗バカンス!

彼らのバカンスに対するこだわりは、イタリアで十回以上の夏を過ごした私にも到底理解しがたい。強迫観念や過度のこだわりや見栄から解放されて、身の丈にあったストレスフリーなバカンスを過ごすことができたなら、より豊かな夏になることだろう。

「我々にバカンス文化を完全に理解するのは難しい」などと言いつつも矛盾するようだが、実は、私も多少なりとも便乗バカンスをする事にしている。地中海の夏は確かに美しい。天気が毎日よくて、乾いた空の色や風の匂いも格別に心地がいい。

夏に楽しまないで、いつ楽しむというのか???とりあえず、海か山に行こうではないか!!!ただし、強迫観念にはとらわれぬように……。

そして、秋はバカンス自慢の季節。よく、懲りないなあ。


P.S.
2009年にWebUomoに掲載した文章に加筆しました。しかし、実はこのバカンス、夏の節電にもなっているんですよね。これって、もしかすると、地中海の知恵なのかもしれない。「暑いならクーラー」じゃ体にも悪いし、心地よくない。それで「暑いなら休みに、そして涼しい場所へ移動」と言う人間の精神と肉体の賛美???が、思わぬ効果を生んでいると言うか。。。南欧のエコロジーは、論理ではなくて、そんな人間主体の気分そのものがリードしているようです。

Thursday, July 26, 2012

華麗なカーニバルの中心地、老舗カフェ「フローリアン」



 カーニバルの伝統衣装が、最も似合う場所「カフェ・フローリアン
男性の手元に注目。仮装していても携帯電話だけは手放せない?

ベネツイアのカーニバルを見にきました。キリストの復活を祝うイースターの前には、肉食を断食したり、特別な祈りと節制の40日間があります。その祈り期間に入る直前に無礼御免のお祭り騒ぎをするのがカーニバル。ヨーロッパの晩冬の風物詩です。
中世の頃から共和制をとり、バチカン教皇庁の支配も弱く、東洋にも開かれた港町だったベネツイアは、進取で自由な気風があり、カーニバルも他の街に比べて派手だったのだとか。

カーニバル期間中の夜更けのサンマルコ広場は、
今まで旅した中でも最高のタイムトリップと言えるだろう。
 
その習慣は、形を変えながらも守られ、現在でも毎年、中世後期かルネサンス期の仮面舞踏会の伝統衣装や仮面をつけた人達がパーティーを繰り広げたり、街をパレードしたり、、、あと衣装のコンテストなども催されているようです。
なんといっても、ヴェネツイアは、巨大な舞台装置のような特別な街。自動車は一台もなく移動手段は歩きか船。リズムも現代社会からかけ離れています。普通の日でさえ、タイムトリップした様な気分になる水の都なわけですから、この仮装者のおかげで余計に、カサノヴァが主人公の映画の中に自分が迷い込んだような気になってくるのです。今回で、ヴェネツイアのカーニバルは二度目ですが、 私が最も好きなのは、夜などに徘徊している仮装の人たちを眺める事です。静まり返った夜のカーニバルは、余計な雑踏が省略されて、なんともフォトジェニックなのです。
そんな一般の観光客が宿に戻ったような夜更け頃には、仮装した男女がサンマルコ広場のカフェ・フローリアンに集い、数百年前の仮面舞踏会の様な異様な雰囲気を漂わせていました。世界最古のカフェとも言われていますが、今でも重厚でクラシックな内装が保たれています。なぜ、彼らがフローリアンに集うかといえば、何と言っても彼らの仮装が最も映える場所だからでしょう。

カフェ・フローリアン前に集う仮装者たち。
フランス語を中心に、ヨーロッパ中の言語が飛び交っていた。

店内は小さな部屋に分かれており、綺麗な衣装をまとった人達は、何気に特別な部屋に通されていました。これも心遣い。その部屋の窓には報道カメラマンなどがへばりついていました。そんな写真が、世界に配信されているんでしょうね。
「最も伝統的」とメニューに書かれた珈琲をオーダーしてみました。現在イタリアで一般的なエスプレッソとは違い、軽くフィルターにお湯を通したものでした。この珈琲から想うに、当時は抽出の掟みたいなものも少なく、今よりもっと自由に珈琲を楽しんでいたのでしょう。

国際的な港がある街と言うのは、基本的に世界中どこでもオープンマインドを持ちあわせているもの。最古のカフェということは、当時は最新のものだったはずです。オリエント急行の発着点でもあり、かつての東西文化の交差点ベネツイアで、往時の進取で自由な気風に思いをはせてみました。
 
カサノヴァや、ゲーテ、ワーグナー、プルースト、ニーチェなどが
座ったかもしれない席で飲むドリップ式コーヒー

 昼間はちびっ子仮装者も参加。
ともあれ、期間中のベネツイア旅行の現実は人の波。。。




雑誌「珈琲時間」2012年8月号から転載加筆させて頂きました。 












Tuesday, July 24, 2012

奈っちゃんより

「いつから写真を始めたの?」「フォトグラファーになろうとしたキッカケって?」などと聞かれることも多い。

一眼レフのカメラを使いだしたのは高校時代。その頃は、詩や散文を書いたり、ビデオカメラで、友人達のバカ騒ぎを写したりするのも、心底楽しいと思ったものだ。その当時、なんとなく文章を書く事や映像世界に興味の方向性を見い出しはじめていた。先生と言うのは生徒の事をよく見ているもので、高校3年の春に担任の教師に放課後呼び出され、「お前、卒業文集か卒業アルバムの編集委員をやれ」と唐突に言われたのを覚えている。そして、フィルムと現像費が使い放題になると言う一声で、アルバム編集委員を選んだ。思い返せば、あの頃から大量の写真を撮っていた事になる。

映画などのメディア芸術や、報道やテレビ、広告業界などのマスコミなどに漠然と憧れ、大学はジャーナリズム学科に進んだ。

偶然だったのだが、その頃の私の大学では、バブル景気に浮かれたサークルの中で、写真部のレベルが飛び抜けて高く見えた。実際に紛争地帯に入っていって雑誌に発表している先輩や、海外志向の高い先輩の深い洞察とニュアンスがある海外スナップ、人間の奥底にまで入り込んだストリートポートレートなどに、正直心を打たれた。要するに取り組んでいる内容が、全く学生のレベルではなかったのだ。最初は、こんな先輩たちに何か教わってみたいと軽い気持ちで思ったのだった。そして、じきに私も暗室で写真のプリントに熱中するようになった。そんな素敵な先輩たちとの出会いが、写真に取り組むキッカケになった。

ただ、それでも、写真には憧れはなく、すぐに自分の仕事にしたいと思ったわけではなかった。

ミラノのスタジオの写真集の本棚から 「奈っちゃんより」三田奈津子写真集

ジャーナリズム学科は、70人ぐらいしかいない小さな学科で、都内の大学では珍しく学科内で仲が良かった。「珍しく」というのも、私が知る限りの友人の都内の大学生活は、サークル活動やバイト先などのつながりの方が濃く、学科の友人は教室で会うだけだったりする事が多い様子だったからだ。

私の大学のキャンパスのメインストリート沿いには、学食と購買の横に屋根のついた。雰囲気の良いオープンスペースがあった。入学後、割りとすぐから、そこにいつも学科の友人が大勢集まるようになっていた。いつしか、そこを「陽だまり」と呼ぶようになり、他にこれといって忙しい活動のない学科の友人達にとっての常時ミィーティングポイントとなった。

なぜ、あんなに学科内のつながりがあったかと思い返すと、なにかにつけて取りまとめてくれた「奈っちゃん」がいたからだろう。

8頭身なんて言い方があるけど、奈ちゃんは、たぶんそれ以上。
高校時代は、シンガポールのジュニアゴルフチャンピオンだったそうだ。

奈ちゃんは、シンガポール育ちの帰国子女で、180cm近くも背丈があり、びっくりするほど顔の小さい女の子だった。ファッションセンスも抜群で、長い足で照れることもなく、大股で堂々とキャンパスを歩くタイプだった。とにかく、この世のものとは思えない圧倒的な存在感を持ち合わせていた。

そんな見た目に加えて、英語の授業では帰国子女らしく、ぶっちぎりな英語で話し始めるのだった。我々は、男女問わず彼女に尊敬と憧憬の念を抱いた。

奈っちゃんは、シンガポールの南国育ちのせいか、笑顔にためらいがなく、人との距離感を縮めるのが究極的にうまかった。私にも積極的に話しかけてくれて、陽だまりに打ち解ける事ができた。私以外にも、そんな風にして、彼女に話しかけられた人がたくさんいた事だろう。言わば、奈っちゃんを媒介として、陽だまりが一つのコミュニティーになっていったのだ。第一印象では近づき難いくらいの「格好良さ」があっただけに、その人懐っこい性格とのギャップが魅力的だった。我々は、そんな友人がいるのを、誇らしく思ったものだった。

陽だまりにて。

ジャーナリズムを学ぶ我々の多くはマスコミ志望で、変わり者だったり、派手だったり、意味もなく元気だったりした。そして、なんといっても看板娘の奈っちゃんが目立ちまくっていて、、、陽だまりのコミュニティーはキャンパス内でも、知られた存在となっていった。

当然の成り行きで、学園祭のミスキャンパスコンテスト候補に奈っちゃんが選ばれた。惜しくも、後にフジテレビのアナウンサーとなる女性にミスキャンパスの座は奪われたものの、、、奈っちゃんは、準ミスキャンパスの座を得た。

バブルが弾ける直前の華やかな時代だった。奈っちゃんはモデルの仕事をはじめるようになり、時折テレビでも見かけるようになった。「クラスメートが、テレビに出ている!!!」という衝撃的な出来事の後も、奈っちゃんや陽だまりは、いつものままだった。

人懐っこい性格で、知り合いの多かった奈っちゃんは、キャスティングと言う仕事をはじめた。テレビか雑誌か映画か、よく分からないのだが、、、必要な場面にドンピシャの人材を見つけてきては、現場に送り込むという仕事だったらしい。とにかく、人を取りまとめる事には天賦の才があったのだ。

ルックス、性格、語学力や頭の良さも圧倒的なのに、それに嫉妬を持つ者はいなかった。
「そのうち、奈っちゃんは有名になるだろう。世界を駆け巡って何か伝えるレポーターの様な仕事につくのではないか?」
実現可能な射程内にいるのも、明らかだった。そして、
「我々は、そんな奈っちゃんの友人なのだ!」
というだけで、誇りと満足を覚え、嫉妬の念までは起こらなかった。最初から比べる対象ではなかったのだろう。

圧倒的な存在感。陽だまりの看板娘。

その頃、私は陽だまりの友人達の写真を撮っていた。身の回りの人の写真を撮るのが何もよりも好きだったからだ。もちろん、奈っちゃんの写真も撮った。陽だまりで撮るだけでなく、女性のポートレートとして撮る機会も何度かあった。

「仁木くんも、知らない人に話しかけるのがとても上手よね。あと、プロの人に撮ってもらうよりも、仁木くんの写真の方が好きだし、、、本当に、カメラマンになれるんじゃないかな?」
と、奈っちゃんが励ましてくれたのを覚えている。彼女の声色まで思い出すくらいに。私はまだ白黒写真の現像を覚えたばかりで、趣味の写真が楽しくはなってきたものの、まだ暗中模索していた時期だった。

大学3年の初夏に、奈っちゃんに頼まれて写真を撮った事があった。「モデルの宣伝用のポートフォリオに入れる写真が欲しいんだけど、、、出来れば仁木くんに撮って欲しい」との事だった。二つ返事でオーケーして、学校内を徘徊して写真を撮った。20年前の出来事なのだが、、、、その時の奈っちゃんの様子も忘れる事ができない。奈っちゃんは、元々写真を撮られる事に関しては多少戸惑いがあったのだが、その時は、まったく戸惑いがなく、自然にオープンで、そして、何よりもエネルギーの置き方が中庸だった。この中庸は、今まで何千人もの人を撮ってきたのだが、そう簡単にできるものではない。出ても引いてもいない稀な在り方だったからこそ、いまだにあの時の事を鮮明に覚えているのかもしれない。そして、時折ふと寂しそうな表情を見せた。その時はモデルになると変わるものだなあと感心したのだが、、、今では、無意識下に自分の運命を悟っていたのかもしれないと、思うようになった。

奈っちゃん、22才の初夏。

その時は何かいい写真が撮れたという感触があった。ただ、私の技術で撮れたというよりかは、奈っちゃんが、わざわざ機会を作って撮らせてくれたと言うような感じだった。

その初夏の奈っちゃんは、ちょっと病気がちで、風邪をこじらせたりしていた。

そして、長い夏休みから帰ると、奈っちゃんは帰省先のシンガポールから戻って来なかった。白血病の治療中だと言う。
「白血病と言っても、骨髄移植などで、じきに治るだろう。俺らよりも、よっぽど将来有望な奈っちゃんが死ぬわけがない」
そんな事を思っていたのもつかぬま、そのニュースを聞いたひと月後には、奈っちゃんが亡くなった事を伝える電話がなった。日本でも葬儀が行われる事を聞いた。

入院中も周りを気遣い、モデルエージェンシーにも、軽い冗談と笑いを交えつつ、夏休み後のすべての仕事のキャンセルを、淡々と自分で電話で伝えていたという。

すぐに私は奈っちゃんの写真のネガを持って、暗室に篭った。葬儀には、大きく引き伸ばした写真を持っていった。その時に私にできる事は、それしかなかったのだ。

20代になったばかりの我々にとって、こんなショックなことはなかった。
「そんな簡単に人って死んでしまうものなのか?それも、よりによって奈っちゃんが。。。」
まだ、バブルの訳の分からない陶酔感が漂う90年代はじめの都心のキャンパスの中で、そんな不思議な思いを陽だまりの仲間達と共有した。人生というのは、なんとも理不尽なものなのだ、、、悪い奴が長生きして、良い人が早死にする事だってあるのだ。若い私達は、心では理解できないのに、受け入れなければならない厳然とした事実に、打ちひしがれた。

私は、自分が撮った奈っちゃんの写真と、友人達の奈っちゃんに関する文章や詩を合わせて、写真文集を出版したいと思うようになった。中には友人の死を利用して、それを表現活動に昇華する事に反対する友人もいた。いつもの陽だまりで、学生らしく議論に至ったりもした。ただ、私は、ジャーナリズムを学ぶ自分たちにしかできない使命だと思った。

写真文集のために、私は改めて暗室に篭った。
「なんと私は写真がヘタなのだ!!!」
撮り直しが効かない写真なだけに、余計にそう思った。写真のネガは完璧ではなかった。露出も狂っていて、ちょっとピンぼけの写真も多く、構図もいまいちだった。そのネガから階調の良い美しい写真をプリントを作るのは、至難の技だった。写真を一から、勉強すべきだと痛感したのはその時だった。瞬間瞬間、最高の技術で撮っておかないと、後では撮り返しがつかない事を身にしみて分かったからだ。

それらの苦労してプリントした写真と、友人達の愛情のこもった文章や詩を組み合わせてみると、奈っちゃんという人間が浮かび上がってきた。あと、ヘタではあるけれども、貴重な瞬間を撮り続けていた私の写真も、自分ながら評価したいと思った。「実際に、奈っちゃんが、この世にいた」という証拠として、写真の役割がとても大きなものに感じたからだ。

そんな作業を通して、写真という表現メディアに更なる可能性を感じ、それを仕事にしたいと思い始めた。その頃までには、過去の写真家の作品にも触れる機会もあり、フォトジャーナリストやポーレート作家の伝説のヒーローも知る事となった。そして、私は大学卒業後の進路を写真の勉強に充てたいと決めた。

その写真文集は、「奈っちゃんより」とタイトルをつけた。陽だまりの友人たちとの会話で、「自分たちの力で、奈っちゃんに捧げるという意味合いよりも、、、奈っちゃんが我々に置いていってくれた贈り物と言う意味合いがあるのではないか?」という話になったからだ。そんな仲間たちに協力してもらって、自分たちの在学中に、出版にこぎつける事ができた。大学の購買の本屋に直接交渉して、平積みしてくれる事になった。そして、誰が買ったのか想像できないくらいに、予想以上な冊数が売れ、しばらくすると刷った分がすべて売れ切れとなった。利益も出て、骨髄移植関連のNPOに募金した。

私は大学を卒業して、ひと月後には写真の勉強を目的にニューヨークに旅立った。それから、今までずっと海外暮らしをしており、奈っちゃんの励まし通りに本当に写真の仕事にも、ありつけるようにもなった。その間、偶然にも海外在住や海外出張中の日本人の中で、写真文集「奈っちゃんより」が家にあるという女性に三人ほど出会った。

彼女らに聞く所によると、学内の奈っちゃんの友人達などが、何冊も買って、それを友人達に配っていたらしいのだ。彼女らは、「こんな本当の話があるんだよ」と何かのキッカケにプレゼントされたり、見せてもらったりしたそうだ。その3人は、年代的に同じか、すこし下の年代だった。食事の時などに、なにげに大学でジャーナリズムを勉強していた話などから、「あの年代で、あの大学で、ジャーナリズムなら。。。」と、彼女らから、突然、奈っちゃんの話に飛ぶような感じで、その話題に及んだ。卒業後、かなりたってから謎がとけた。そうか、それであんなに売れたのか。奈っちゃんの友人達が何冊も買っていたとは。。。「やっぱり、奈っちゃんは、すごいなあ」

奈っちゃんは今でも色んな意味で、たくさんの人の心の中で生き続けているとも言えるだろう。若くして亡くなったとは言え、思い残すことなく、天国で安眠していることと、私は信じている。

奈っちゃんの写真を最後に撮ったのが、大学3年の初夏で、ちょうど今から20年前。先日、ミラノの気持ちの良い初夏の風に打たれながら歩いていて、ふとあの日の事を思い出した。

天国にいる奈っちゃんへ。
「そういえば、報告遅れたけどさ。。。まあ一応、”フォトグラファー仁木岳彦” なんて呼ばれるようになったよ。学生の時は励ましてくれて、ありがとう!」