Friday, April 23, 2010

春の桜に想う永遠

「美」とは、すなわち「生命力の強さに対する憧れ」なのではないか?黄金比とオーム貝の関係性について先日書いた。
生命力の強さと永遠への憧れが「美」の基本だと仮定すると、西洋の美的感覚についてはある程度説明がつくような気がする。だとすると、日本人の美的感覚は どこから来るのだろうか?春を迎えるたびに考えさせられる。 

 [ドゥオモ教会の内部 ]

ドゥオモの500年、伊勢神宮の20年

私が住んでいるミラノの中心にあるドゥオモ教会は、1300年代からおよそ500年の年月をかけて建てられた世界最大のゴシック建築である。壊される事は 永遠にないだろうと、「仮にでも」みんな信じている。実際、教会内部に入ってみると、スケールと荘厳さから「永遠」を信じさせるような説得力がある。
そんなヨーロッパの建築に対して、時おり引き合いに出されるのが三重県の伊勢神宮である。日本の国家神道の頂点であり、エンペラーファミリーとも縁が深く、他とは別格な神社だと言われている。日本人にとって一生に一度の伊勢参りは、富士山登頂とならんで、イスラムのメッカ巡礼に近いものがあるではないか。
私も一度だけ伊勢参りをした事がある。五十鈴川の御手洗場を過ぎた辺りから、周りの空気の質感が締まりのある清浄なものになるのを感じた。神話の世界が、私の身体に脈々と流れてきた。そして、自分自身が日本神話のイザナギとイザナミの末裔の化身であり、大自然の一部である事を思い知った。自分がまぎれもない日本人であることに感謝の念が起こった。
「ありがとうございます」
本殿に着いた時には、自然と頭が下がった。
「皆様のお仲間に入れていただいた事を、光栄に想っております」
そんな気持ちだったのを覚えている。お賽銭を投げて、願いごとをしている場合ではなかった。もっともっと大きなエネルギーに抱かれる感じがした。

石の永遠、技の永遠

その神宮の本殿は「20年」ごとに建て替えられる。ヨーロッパ人にとっては、日本の最大のミステリーのひとつである。国家神道の頂点の本殿を、なぜもっと立派に、もっと長くもつように建てないのか?20年とはまた、どういうスケールでものごとを考えているのだろうか?
あの清浄な空気には古い建物は似合わないのかもしれない。まだ呼吸しているような木材で建ててこそ、あの自然との一体感があるのだろう。
この20年という時間のスパンは、建築技術や伝統工芸の伝承の意味があるとも言われている。20年ごとと言え ば、20歳の時に見習いとして、40歳の時に現場の働き頭として、60歳の時にまだ生きていれば、指南役として関わる事ができる。こうして技術を確実に伝承し、伊勢神宮の本殿はもしかすると何千年に渡って同じものを建て続ける事ができるわけだ。結局は、ここにも「永遠への憧れ」が、にじみ出ているのではないか。
ヨーロッパでは、頑丈な「石」に永遠の憧れを託すのに対し、日本では世代間を渡っての「技の伝承」による永遠である。「いさぎよい日本の文化」の中では、永遠は物質的なものだけではなく、「技」の様な目に見えないものにも宿っている。「形ある物はいずれ壊れること」と、「永遠への憧れ」と言う二極の想いの矛盾を見事に両立させているように思える。 

ぱっと咲いてぱっと散る桜も、日本の美の象徴である。一年で満開なのは、ほんの数日。私たちの短い人生に例えられる。そして、咲いている桜だけでなく、ひらひらと散りゆく桜が心の琴線に触れるのは、私たちが死を怖れない「いさぎよい日本人」だからかもしれない。
輪廻転生と来世を無意識下にでも信じているからこそ、桜のはかなさを「もののあわれ」として泰然と受け入れる事ができるのはないか。今春の桜とはすなわち今世であり、私たち日本人にとっては「死」の瞬間さえも美しいはずなのだ。来世と来春を信じるから死は終わりでもなく否定的なものでもない。 
「散りゆく桜は美しい」
私たちにとって当たり前のこの感覚が、他の民族には、なかなか伝わらないのだ。
[ミラノの自宅近所の夜桜]
私たち日本人は、池や地面に散ってしまった桜の花びらの絨毯さえ、死してなお美しいと感じる。「あの世」で肩を寄せ合う自分たちの姿にイメージを重ねる。 仲間とそれを眺めては、「きっと、また会える」と輪廻と永遠の巡り会いを信じる事ができる特殊な民族なのである。
共に桜を愛でるとき、私たちの連帯感は極めて強固なものとなる。それは「終わりのない魂の旅」と「死の肯定」 を共同で確認しあっているのかもしれない。「もののあわれ」とは、永遠への憧れをあの世に託し、目に見える物質レベルから目に見えない魂レベルへ引き上げる日本人特有の精神の営みとも言える。
時の移ろいを注意深く観察していると最高の瞬間が訪れる。そして、その最高の瞬間を心に留めるようとするのも 日本的な感覚なのではないか?大学の入学式で圧倒された四ツ谷の土手の桜、家族と歩いた京都の哲学の道の桜並木、ひとりで花見に訪れたワシントンDCのポトマック川沿いの桜……。私にもいつでも思い出せる「春」と「桜」がいくつもある。いつでも思い出せるその感触も、私は永遠と呼びたい。 

[大理石の女性の彫像]

簡単には訳せない残り香

私たちは、美しい女性の姿も大理石の彫刻に残そうとは思わない。彼女が去った後も、その残り香でその人を想い、短歌にしたためるのが日本人である。シェイクスピアやダンテの神曲よりも古い私たちの古典文学「源氏物語」の世界である。

そして、その残り香も、じきに消えてしまう。桜同様、消えるからこそ、永遠の想いを心に誓うわけである。「残り香」という単語自体、他の言語には簡単に訳せない。そんな日本的な繊細な感性に、私はときに圧倒される。「死」を積極的に受け入れようと試みる日本人は、「永遠」と「形ある物はいずれ壊れる」という物質的な矛盾をすでに解決してしまっているからだ。

この世の永遠、あの世の永遠
いさぎよい私たち「日本人の永遠」は、20年ごとに立て替えられる伊勢神宮、数日で散ってしまう桜、そして残り香の中にこそ見える。日本人も、結局はヨー ロッパ人同様、「永遠」に美を見出しているのではないか?と言うのが、この春に想った私の結論である。
ただ、ヨーロッパでは物質的な「石や大理石」など「この世」に永遠を託すのに対し、日本では「技の伝承、もののあわれな想い、輪廻転生の誓い」などの「あの世」に永遠が宿る点が違う。「この世」と「あの世」の境界線が曖昧で、その間を行ったり来たりできるのが日 本人の特技でもある。私たちの永遠と美に対する感覚は、ある意味ではヨーロッパ人よりも鋭敏なのかもしれない。
友人からのEメールに添付されて、日本の桜の写真が届いた。望郷の季節である。春、遠くイタリアより、日本人であることに改めて感謝。

Tuesday, April 20, 2010

黄金比率に想う、美と生命讃歌

[黄金比率が多用されていると言うギリシャ神殿(アグリジェント シチリア)]

地球にも彼の歴史があり、年齢にたとえると、約45億歳と言われている。生物が生まれてからは約25億年。その歴史の古代の頃から生息していた生物が、現代でも生存している例はあまりない。多くの生物が進化の過程で絶滅してきたからだ。そんな中で、シーラカンス、チョウザメ、カブトガニやオーム貝などは生きた化石、または原始生物ともいわれ、人類が地球に誕生するはるか前から地球に存在し今でも生存している。地球上で最も生命力の強い生物とも言えるだろう。

オーム貝と黄金比率の関係性

そんな原始生物の中で、「オーム貝の螺旋(らせん)には“黄金比”が関係している」ということを小耳にはさみ、いろいろリサーチしてみた。オーム貝は巻貝なのだか、完璧な黄金比で螺旋を巻いている。黄金比といえば、 ギリシャ神殿やローマ時代の彫刻などに多用された比率と言われている。「1: 1.618」の比率は、人間の目に美しいという印象を与える。オーム貝は月の満ち欠けのリズムに呼応して成長するらしい。宇宙のリズムが、オーム貝の黄金比の螺旋をかたちづくると言うわけだ。
そのオーム貝から進化して、新種の巻貝「アンモナイト」が派生した。アンモナイトとオーム貝の大きな違いは、 オーム貝は自分のカタチを変える事が決してなかったのに対して、アンモナイトはそれぞれの土地の風土に合わせて順応し、自分のカタチを派手に変えていった点にある。横に広がったものや縦に長いものなど、様々なものがある。それぞれの住む場所に合わせて自在に順応できると言う特性のおかげで、アンモナイトは大繁殖して、隆盛をきわめた。
アンモナイトの化石は博物館などにいけば、たくさんあるので見た事がある人も多いはずである。そういえば、学校の理科室にもあったような記憶すらある。とにかく、その化石が珍しくないくらいに、地球のそこら中に繁殖していたということだろう。しかし、生存するアンモナイトというのは、お目にかかった事がない。そう、様々な種類があったアンモナイトは、あるとき絶滅してしまうのだ。それぞれの土地の風土に順応して、自分のカタチを変えていたアンモナ イトは、環境が変わったときには、とても弱かったのだ。隆盛を極めた頃、アンモナイトは生命力の強い生物に見えたに違いない。しかし、地球は何億年も同じ 環境であるとは限らない。地球にも彼の歴史があり、変化し続けているのだ。そんな歴史を横目に、黄金比の螺旋を守り続けたオーム貝は、隆盛を極める事もな かったが、今でも地味に生き続けている。並々ならぬ生命力と言えよう。

美とは生命力への憧れ

世の中には美しいと思えるものがある。それは、単に感情に訴える情緒的なものなのだろうか?私は、オーム貝の黄金比の螺旋について調べるうちに、「美」と はすなわち「生命力の強さに対する憧れ」なのではないかと思う様になった。
黄金比を多用した神殿や彫刻をみて、私たちは美しいと思う。それは我々のDNAに長年にわたって書き込まれ、無意識下にプログラムされた「生命に対する賛美」なのかもしれない。 

隆盛を誇るだけでは本物の生命力とは言えない

アンモナイト的な派手な「美」は、一世を風靡するファッション性の高い美とも言える。消費者にこびたコマーシャルな美は隆盛を誇っても、時間軸を加えると、とたんに生命力を失う。順応しすぎたものの弱さが露呈する。
すでに完璧な黄金比を持ったオーム貝的な美は、周りの環境にあわせて特別にカタチを変える必要もない。悠久なる時間に身を任せて、月の満ち欠けのリズムにさえ注意を払えば良いのだ。結果として、普遍的な美を守り続けてきた事になる。

  [彫刻のような端正な顔立ちをもつイタリア人女優 クラウディア ディ カンディア]

現存する、世界最古のジュエリーメーカー

ルネッサンス時代の1369年に創業したという世界最古のジュエラー「トッリーニ」の事を思い出した。フィレンツェで創業してから600年以上もの間、代々創業一族が継承してきたという。フリーメイソンの会員とも噂される現在のオーナーが、代々受け継いで来た美の哲学を語る内容の取材をした事があった。

 「我々は、流行を作ろうとも思わないし、これ以上ブランドを大きくしたいとも思わない。むしろ、大きくしない 様に留意しているくらいなのだ。本当のクオリティを守ろうと思うと、そこに行き着くのだ。本当のクオリティというのは、肌で感じる物なのだ。我々のデザインを真似て大量生産するものがいても、それにはあまり興味がない。彼らの商売が、長続きするわけがないのだから」。
ナチスドイツがイタリアにも影響を及ぼしていた頃、彼の父親は収容所に送り込まれた。ユダヤだったからではな く、危険思想者だと思われたからだと言う。詳しい事は語られなかったのだが、反ナチスの地下組織の運動でもしていたことが予想される。その頃、ナチスが大隆盛を誇っていたのにも関わらず、美のバランス、すなわち永遠の生命力がない事を彼の父親が見破っていたのかもしれない。隆盛に逆らってでも、美の哲学を守り抜いたとも言えよう。

美を守り抜くという事

芯の通った深い哲学が流れていないと、美は表現できない。そして、そこには永遠の命に対する憧れがにじみ出てくる事だろう。「美」を守り抜くということ は、壮絶なことなのだ。周りの環境に馴染みすぎて、隆盛を誇るだけでは、本当の生命力とはいえない。

オーム貝と黄金比の話と、世界最古のジュエリーブランドのオーナーの話が、私の中で勝手にリンクしてしまい、それは、私の哲学にも大きく影響を与えてし まった。