Tuesday, July 24, 2012

奈っちゃんより

「いつから写真を始めたの?」「フォトグラファーになろうとしたキッカケって?」などと聞かれることも多い。

一眼レフのカメラを使いだしたのは高校時代。その頃は、詩や散文を書いたり、ビデオカメラで、友人達のバカ騒ぎを写したりするのも、心底楽しいと思ったものだ。その当時、なんとなく文章を書く事や映像世界に興味の方向性を見い出しはじめていた。先生と言うのは生徒の事をよく見ているもので、高校3年の春に担任の教師に放課後呼び出され、「お前、卒業文集か卒業アルバムの編集委員をやれ」と唐突に言われたのを覚えている。そして、フィルムと現像費が使い放題になると言う一声で、アルバム編集委員を選んだ。思い返せば、あの頃から大量の写真を撮っていた事になる。

映画などのメディア芸術や、報道やテレビ、広告業界などのマスコミなどに漠然と憧れ、大学はジャーナリズム学科に進んだ。

偶然だったのだが、その頃の私の大学では、バブル景気に浮かれたサークルの中で、写真部のレベルが飛び抜けて高く見えた。実際に紛争地帯に入っていって雑誌に発表している先輩や、海外志向の高い先輩の深い洞察とニュアンスがある海外スナップ、人間の奥底にまで入り込んだストリートポートレートなどに、正直心を打たれた。要するに取り組んでいる内容が、全く学生のレベルではなかったのだ。最初は、こんな先輩たちに何か教わってみたいと軽い気持ちで思ったのだった。そして、じきに私も暗室で写真のプリントに熱中するようになった。そんな素敵な先輩たちとの出会いが、写真に取り組むキッカケになった。

ただ、それでも、写真には憧れはなく、すぐに自分の仕事にしたいと思ったわけではなかった。

ミラノのスタジオの写真集の本棚から 「奈っちゃんより」三田奈津子写真集

ジャーナリズム学科は、70人ぐらいしかいない小さな学科で、都内の大学では珍しく学科内で仲が良かった。「珍しく」というのも、私が知る限りの友人の都内の大学生活は、サークル活動やバイト先などのつながりの方が濃く、学科の友人は教室で会うだけだったりする事が多い様子だったからだ。

私の大学のキャンパスのメインストリート沿いには、学食と購買の横に屋根のついた。雰囲気の良いオープンスペースがあった。入学後、割りとすぐから、そこにいつも学科の友人が大勢集まるようになっていた。いつしか、そこを「陽だまり」と呼ぶようになり、他にこれといって忙しい活動のない学科の友人達にとっての常時ミィーティングポイントとなった。

なぜ、あんなに学科内のつながりがあったかと思い返すと、なにかにつけて取りまとめてくれた「奈っちゃん」がいたからだろう。

8頭身なんて言い方があるけど、奈ちゃんは、たぶんそれ以上。
高校時代は、シンガポールのジュニアゴルフチャンピオンだったそうだ。

奈ちゃんは、シンガポール育ちの帰国子女で、180cm近くも背丈があり、びっくりするほど顔の小さい女の子だった。ファッションセンスも抜群で、長い足で照れることもなく、大股で堂々とキャンパスを歩くタイプだった。とにかく、この世のものとは思えない圧倒的な存在感を持ち合わせていた。

そんな見た目に加えて、英語の授業では帰国子女らしく、ぶっちぎりな英語で話し始めるのだった。我々は、男女問わず彼女に尊敬と憧憬の念を抱いた。

奈っちゃんは、シンガポールの南国育ちのせいか、笑顔にためらいがなく、人との距離感を縮めるのが究極的にうまかった。私にも積極的に話しかけてくれて、陽だまりに打ち解ける事ができた。私以外にも、そんな風にして、彼女に話しかけられた人がたくさんいた事だろう。言わば、奈っちゃんを媒介として、陽だまりが一つのコミュニティーになっていったのだ。第一印象では近づき難いくらいの「格好良さ」があっただけに、その人懐っこい性格とのギャップが魅力的だった。我々は、そんな友人がいるのを、誇らしく思ったものだった。

陽だまりにて。

ジャーナリズムを学ぶ我々の多くはマスコミ志望で、変わり者だったり、派手だったり、意味もなく元気だったりした。そして、なんといっても看板娘の奈っちゃんが目立ちまくっていて、、、陽だまりのコミュニティーはキャンパス内でも、知られた存在となっていった。

当然の成り行きで、学園祭のミスキャンパスコンテスト候補に奈っちゃんが選ばれた。惜しくも、後にフジテレビのアナウンサーとなる女性にミスキャンパスの座は奪われたものの、、、奈っちゃんは、準ミスキャンパスの座を得た。

バブルが弾ける直前の華やかな時代だった。奈っちゃんはモデルの仕事をはじめるようになり、時折テレビでも見かけるようになった。「クラスメートが、テレビに出ている!!!」という衝撃的な出来事の後も、奈っちゃんや陽だまりは、いつものままだった。

人懐っこい性格で、知り合いの多かった奈っちゃんは、キャスティングと言う仕事をはじめた。テレビか雑誌か映画か、よく分からないのだが、、、必要な場面にドンピシャの人材を見つけてきては、現場に送り込むという仕事だったらしい。とにかく、人を取りまとめる事には天賦の才があったのだ。

ルックス、性格、語学力や頭の良さも圧倒的なのに、それに嫉妬を持つ者はいなかった。
「そのうち、奈っちゃんは有名になるだろう。世界を駆け巡って何か伝えるレポーターの様な仕事につくのではないか?」
実現可能な射程内にいるのも、明らかだった。そして、
「我々は、そんな奈っちゃんの友人なのだ!」
というだけで、誇りと満足を覚え、嫉妬の念までは起こらなかった。最初から比べる対象ではなかったのだろう。

圧倒的な存在感。陽だまりの看板娘。

その頃、私は陽だまりの友人達の写真を撮っていた。身の回りの人の写真を撮るのが何もよりも好きだったからだ。もちろん、奈っちゃんの写真も撮った。陽だまりで撮るだけでなく、女性のポートレートとして撮る機会も何度かあった。

「仁木くんも、知らない人に話しかけるのがとても上手よね。あと、プロの人に撮ってもらうよりも、仁木くんの写真の方が好きだし、、、本当に、カメラマンになれるんじゃないかな?」
と、奈っちゃんが励ましてくれたのを覚えている。彼女の声色まで思い出すくらいに。私はまだ白黒写真の現像を覚えたばかりで、趣味の写真が楽しくはなってきたものの、まだ暗中模索していた時期だった。

大学3年の初夏に、奈っちゃんに頼まれて写真を撮った事があった。「モデルの宣伝用のポートフォリオに入れる写真が欲しいんだけど、、、出来れば仁木くんに撮って欲しい」との事だった。二つ返事でオーケーして、学校内を徘徊して写真を撮った。20年前の出来事なのだが、、、、その時の奈っちゃんの様子も忘れる事ができない。奈っちゃんは、元々写真を撮られる事に関しては多少戸惑いがあったのだが、その時は、まったく戸惑いがなく、自然にオープンで、そして、何よりもエネルギーの置き方が中庸だった。この中庸は、今まで何千人もの人を撮ってきたのだが、そう簡単にできるものではない。出ても引いてもいない稀な在り方だったからこそ、いまだにあの時の事を鮮明に覚えているのかもしれない。そして、時折ふと寂しそうな表情を見せた。その時はモデルになると変わるものだなあと感心したのだが、、、今では、無意識下に自分の運命を悟っていたのかもしれないと、思うようになった。

奈っちゃん、22才の初夏。

その時は何かいい写真が撮れたという感触があった。ただ、私の技術で撮れたというよりかは、奈っちゃんが、わざわざ機会を作って撮らせてくれたと言うような感じだった。

その初夏の奈っちゃんは、ちょっと病気がちで、風邪をこじらせたりしていた。

そして、長い夏休みから帰ると、奈っちゃんは帰省先のシンガポールから戻って来なかった。白血病の治療中だと言う。
「白血病と言っても、骨髄移植などで、じきに治るだろう。俺らよりも、よっぽど将来有望な奈っちゃんが死ぬわけがない」
そんな事を思っていたのもつかぬま、そのニュースを聞いたひと月後には、奈っちゃんが亡くなった事を伝える電話がなった。日本でも葬儀が行われる事を聞いた。

入院中も周りを気遣い、モデルエージェンシーにも、軽い冗談と笑いを交えつつ、夏休み後のすべての仕事のキャンセルを、淡々と自分で電話で伝えていたという。

すぐに私は奈っちゃんの写真のネガを持って、暗室に篭った。葬儀には、大きく引き伸ばした写真を持っていった。その時に私にできる事は、それしかなかったのだ。

20代になったばかりの我々にとって、こんなショックなことはなかった。
「そんな簡単に人って死んでしまうものなのか?それも、よりによって奈っちゃんが。。。」
まだ、バブルの訳の分からない陶酔感が漂う90年代はじめの都心のキャンパスの中で、そんな不思議な思いを陽だまりの仲間達と共有した。人生というのは、なんとも理不尽なものなのだ、、、悪い奴が長生きして、良い人が早死にする事だってあるのだ。若い私達は、心では理解できないのに、受け入れなければならない厳然とした事実に、打ちひしがれた。

私は、自分が撮った奈っちゃんの写真と、友人達の奈っちゃんに関する文章や詩を合わせて、写真文集を出版したいと思うようになった。中には友人の死を利用して、それを表現活動に昇華する事に反対する友人もいた。いつもの陽だまりで、学生らしく議論に至ったりもした。ただ、私は、ジャーナリズムを学ぶ自分たちにしかできない使命だと思った。

写真文集のために、私は改めて暗室に篭った。
「なんと私は写真がヘタなのだ!!!」
撮り直しが効かない写真なだけに、余計にそう思った。写真のネガは完璧ではなかった。露出も狂っていて、ちょっとピンぼけの写真も多く、構図もいまいちだった。そのネガから階調の良い美しい写真をプリントを作るのは、至難の技だった。写真を一から、勉強すべきだと痛感したのはその時だった。瞬間瞬間、最高の技術で撮っておかないと、後では撮り返しがつかない事を身にしみて分かったからだ。

それらの苦労してプリントした写真と、友人達の愛情のこもった文章や詩を組み合わせてみると、奈っちゃんという人間が浮かび上がってきた。あと、ヘタではあるけれども、貴重な瞬間を撮り続けていた私の写真も、自分ながら評価したいと思った。「実際に、奈っちゃんが、この世にいた」という証拠として、写真の役割がとても大きなものに感じたからだ。

そんな作業を通して、写真という表現メディアに更なる可能性を感じ、それを仕事にしたいと思い始めた。その頃までには、過去の写真家の作品にも触れる機会もあり、フォトジャーナリストやポーレート作家の伝説のヒーローも知る事となった。そして、私は大学卒業後の進路を写真の勉強に充てたいと決めた。

その写真文集は、「奈っちゃんより」とタイトルをつけた。陽だまりの友人たちとの会話で、「自分たちの力で、奈っちゃんに捧げるという意味合いよりも、、、奈っちゃんが我々に置いていってくれた贈り物と言う意味合いがあるのではないか?」という話になったからだ。そんな仲間たちに協力してもらって、自分たちの在学中に、出版にこぎつける事ができた。大学の購買の本屋に直接交渉して、平積みしてくれる事になった。そして、誰が買ったのか想像できないくらいに、予想以上な冊数が売れ、しばらくすると刷った分がすべて売れ切れとなった。利益も出て、骨髄移植関連のNPOに募金した。

私は大学を卒業して、ひと月後には写真の勉強を目的にニューヨークに旅立った。それから、今までずっと海外暮らしをしており、奈っちゃんの励まし通りに本当に写真の仕事にも、ありつけるようにもなった。その間、偶然にも海外在住や海外出張中の日本人の中で、写真文集「奈っちゃんより」が家にあるという女性に三人ほど出会った。

彼女らに聞く所によると、学内の奈っちゃんの友人達などが、何冊も買って、それを友人達に配っていたらしいのだ。彼女らは、「こんな本当の話があるんだよ」と何かのキッカケにプレゼントされたり、見せてもらったりしたそうだ。その3人は、年代的に同じか、すこし下の年代だった。食事の時などに、なにげに大学でジャーナリズムを勉強していた話などから、「あの年代で、あの大学で、ジャーナリズムなら。。。」と、彼女らから、突然、奈っちゃんの話に飛ぶような感じで、その話題に及んだ。卒業後、かなりたってから謎がとけた。そうか、それであんなに売れたのか。奈っちゃんの友人達が何冊も買っていたとは。。。「やっぱり、奈っちゃんは、すごいなあ」

奈っちゃんは今でも色んな意味で、たくさんの人の心の中で生き続けているとも言えるだろう。若くして亡くなったとは言え、思い残すことなく、天国で安眠していることと、私は信じている。

奈っちゃんの写真を最後に撮ったのが、大学3年の初夏で、ちょうど今から20年前。先日、ミラノの気持ちの良い初夏の風に打たれながら歩いていて、ふとあの日の事を思い出した。

天国にいる奈っちゃんへ。
「そういえば、報告遅れたけどさ。。。まあ一応、”フォトグラファー仁木岳彦” なんて呼ばれるようになったよ。学生の時は励ましてくれて、ありがとう!」

1 comment:

  1. 寿命の長幼は
    人間には決めることができませんが
    夭折した人の写真は
    なんとも切なく哀しくなります。
    今は天国にて
    地上の友人のために
    祈ってくれているんでしょうね。

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