Saturday, November 5, 2011

復興の祈り




「復興の祈り」(国民みらい出版)が発売。石原慎太郎知事、千葉麗子さん、乙武洋匡さん、片岡鶴太郎さん、西田敏行さん、吉永小百合さん、渡辺謙さん、いしだ壱成さんはじめ、300人のメッセージを掲載。機会を頂き、26番目のメッセージ(59ページ)は、私からの祈りです。
推進派や反対派、ナショナリストやアナーキスト、たとえ思想や主義主張が対立していても、復興を祈っていると言う想いは一緒なのかもしれません。本がミラノに送られて来て、何気にページをめくっている時にそんな事を思いました。 
もし、書店などで見かけるような事があったら、ひと時でも手にとって頂けると幸いに思います。 

Wednesday, October 19, 2011

パリのカフェからの手紙ー天使探しの旅

最近の私の撮影のテーマは「天使」。天使像を撮るためにミラノの自宅を離れ、パリへと旅してきました。キリスト教美術に溢れるヨーロッパに居を移して10年以上の時が経ちました。そんな美術を丹念に見て行くと、多種多様な天使達が至る所で登場するのを見るたびに、いつかテーマにしたいと思っていたのです。

 パリ最大の墓地、ペレラシャースの天使像。
小さいけど有名な天使。

 作家のオスカーワイルドのお墓にはファンのキスマークが。
死んでも、これだけ愛されれば、作家冥利につきるのでは?

 作曲家ショパンのお墓は花で溢れ、記念撮影するグループも。
優れた芸術は何世紀も生き延びる事を再確認してしまった。
芸術家のお墓の愛され方は特別だった。

調べてみると、教会や美術館だけでなく、パリの墓地には立派な天使像が多いと分かりました。墓地とは最初は意外でしたが、地図を片手にした観光客もかなりいました。作家のオスカーワイルドの墓にはたくさんのキスマーク。作曲家ショパンの墓では花が飾られ、記念撮影に興じるグループ。湿った感じはあまりなく、静かな彫刻公園という印象。趣向を凝らしたお墓を脇目に「天使を探す旅」もなかなか楽しいものです。

ちなみに今日はお墓ではなく、セーヌ川左岸のある教会に映画スターの様な大天使がいると聞き、かなり探し歩きました。やっと見つけたものの、光の状態は刻一刻と変化するし、彫像だけにポーズの指示はできないし、なかなか根気のいる撮影でした。ただ、動かないのに、撮る角度でまったく違う表情をみせるので、人物撮影とは違う面白さもありました。

噂の映画スターの様な天使は圧倒的な存在感だった。

  かつてはヘミングウェイが原稿を書いていたかもしれないテーブルで、
現代のパリジェンヌは携帯電話を使って情報交換したり、
おしゃべりに興じたりしていた。

 コーヒーとミルクが惜しげもなくたっぷりと別々の瓶に。

ようやく、今ひと仕事終えて、カフェで一服しています。サンジェルマンデプレ地区の「レドゥマゴ」。サルトルやボヴォワールが根城にし、ピカソやヘミングウェイも足繁く通った名店です。彼らの議論を想うだけでも刺激的。何しろ世界的な文学や哲学が、ここで生まれたのですから。

カフェオレはここでは、Cafe’ Cremeと呼ぶそうです。コーヒーとミルクが別々の瓶にたっぷりでてきて、これまたオシャレ。と言うか、その佇まいが長居しても良いというサインにすら思えます。要するに、議論したり、原稿を書いたりするには、まさに最高の場所なのです。

屋外席の椅子がみな通りの方を向いていて、それも気に入りました。道ゆく人や隣の客を眺めているだけでも、彼らそれぞれの物語を感じ、全然飽きません。パリのカフェ文化が生まれた地とあって、興奮気味です。

値段もさほど高くなく、観光客だけでなく、パリッ子たちも使っています。文学や哲学の妖気が今も漂っているのは、そのあたりの絶妙なさじ加減かもしれません。さずがはパリ。Cafe’ Cremeは成熟した大人の薫りがしました。

この一杯が効いたのか、天使の写真に添える文章などが浮かんできそうです。では、また。
 
 現在でもカフェが主催する文学賞があるそうだ。



Thursday, July 28, 2011

ミラノで垣間みたチャリティー精神、日本人としての自分

震災の数日後、その訪問者は昔ながらの方法で、私の家にやって来た。互いの携帯番号やメールアドレスを知らないのだから、仕方がない。アパートのドアベルを、いきなり鳴らして来たのだった。近所の教会の日曜ミサで会う人だった。会う度に挨拶を交すのだが、それ以上の間柄でもなかった。イタリア空軍に働くお父さんで、たまに制服を来て、子供と歩いているのを良く見かけた。なんの用事かと思ったら、神妙な面持ちで伝えて来た内容は「地震のニュースを聞いたのだが、家族は大丈夫か?何か、助けられる事があったら言って欲しい。もし、チャリティーのイベントなどもあったら、それも教えてくれないか?」と言う事だった。

 近所のキオスクで見かけた「復興」の文字

彼以外にも、沢山のイタリア人の友人達や、知り合いが、日本の事を心配してくれた。電話やメール、または道端で、家族の安否や日本の状態について気遣ってくれた。遠い日本での出来事を、こんなに身近に感じてくれている。そして、出来る範囲で、何かをしたがっている人がたくさんいるのだ。なんと有り難い事だろう。

震災から数日後にはカトリック系の新聞が、震災について私に取材をした。それが紙面に載ったその日、ミラノ郊外の教会の神父が私にコンタクトをしてきた。「是非、私達の教会に来てスピーチをしてくれないか?」と言う。こんな時に、日本人と対話を持ちたいと言う人達がいて、それを断る理由は何もない。4月の初旬に、彼らの教会に行って来た。スイス国境にも近いであろうミラノ郊外の田舎町までは、車で小一時間程かかった。その集まりは、復活祭前のお祈りを兼ねていた。神父は、十字架の道行きというお祈りを早めに切り上げて、私を紹介した。何から話して良いかよく分からなかったが、彼らが次々に質問してくれたので、それに答えていくだけでも、ある種のスピーチになった。私がどうして信仰に至ったかの話と、震災後の日本の状況が話題の中心だった。日本では、カトリックが、かなりのマイノリティーである事に、みんなまずは驚き、そんな中で私が聖母マリアとの出会いを通して信仰に至った経過を話した。そして、震災については、ニュースそのものはみんな知っていたわけだから、日本の友人達がメールなどで私に知らせて来た話を中心に話した。出版業界の紙やインク不足など、災害地以外の被害についての話も結構新鮮に響いたようだった。都心の飲食、娯楽業界も大打撃を受けている事も、熱心にうなずきながら聞いてくれている人も見受けられて、救われた感じがした。そして、彼らはすでに、募金を集めてくれていて、それを渡したいがためにも、私を呼んだ事も分かった。田舎街の小さな教会のわりには、その募金がかなりの額で、とても驚いた。日常生活では見た事がない高額紙幣も何枚も入っていた。額はともかくとしても、そんな彼らの気持ちがとても嬉しかった。日本人の友人がいないカトリックコミュニティーが、日本人の私にわざわざコンタクトをとり、その新しい友人である所の私を呼んでまで、助けとなりたいと願ってくれたわけだ。募金を預かるなんて経験は私にとっては初めてで、預かった後、とても緊張した。他人の良心を預かったようなものだからだ。色々と調べて、カトリックのボランティア支援組織カリタスジャパンに送る事にした。

レオナルドダヴィンチ科学博物館で行われたイベント『Arte e Natura』
日伊の芸術家の講演会冒頭で、震災被害を想い、黙祷を捧げる参加者

その他にも春から夏にかけて、チャリティーイベントが目白押しだった。草の根で自発的にたくさんのイベントがあり、そのすべてに参加するのは到底、無理だった。そのすべてをここで紹介できないのも残念だ。ただ、普段通りの生活が負担にならない限りは、とにかく参加する事にした。

まずは、3月末には私も作品で協力したARTE GIAPPONEが企画したグループ展とコンサートがあった。在ミラノの日本人アーティストや音楽家の賛同と協力を得て実現した。イタリア人も大勢、押し寄せて来て大成功。アート作品の売上金と募金箱の義援金すべてが、被災地に送られた。Luce per Giapponeと言う有志が企画した別のコンサートも、ミラノ市内の中央で開かれた。その義援金は南三陸町の幼稚園の再建に使われるという事だった。ミラノがアートやオペラの中心地と言う事の地の利を活かしたイベントだった。

Arte Giapponeで行われたコンサート
いつ聞いても感動を誘ってしまう「ふるさと」


Luce per Giapponeという有志が集まって実現した
ここでも、コンサートの最後の方で、
オペラ歌手達が歌う「ふるさと」

世界中のデザイン界が集まるお祭り、ミラノサローネ(家具デザイン見本市)の時期にも、知る限り、『チャリティーボックス展』と『For Smiles Japan』と言う二つのイベントがあった。

『チャリティーボックス展』と名付けられたイベントでは、工業デザイナーや建築家などにいわゆるチャリティーボックス(募金箱)をデザインしてもらって、それを展示すると言う試みだった。見に来た人は、自分が気に入ったチャリティーボックスに募金し、それが則ち震災救援募金になると言う粋なアイディアだった。ミラノサローネの期間は4月の中旬。よくも、あそこまで準備できたと思う。

 『チャリティーボックス展』の様子

 チャリティボックスの一つに真剣に寄せ書きをする子供

 『For Smiles Japan』では、震災直後に被害地に入った在東京のイタリア人写真家ジャンニ・ジョスエ氏(www.giannigiosue.com)の写真を飾り、 寄せ書きコーナーがもうけられた。写真家自身も実際に来てくれて、スライドショーと講演をしてくれた。現地の声をイタリア人から聞くと言う不思議な体験だった。ミラノのトルトーナ地区と言う、ミラノサローネの期間では最高に人通りの多いゾーンが会場だったせいか、意図せず、なにげに入って来る人も多かったようだ。


 『For Smiles Japan』での、ジャンニジョスエ氏の講演会の様子

元々、ここ数年、イタリアでは、日本の存在感が上がって来ている。まずは空前の和食ブーム。9割が中国人経営とはいえ、ミラノには300軒もの和食レストランがあるとも聞く。私がミラノに来た10年前からくらべると10倍以上の数になっている計算になる。MTVでは日本のマンガをオシャレ文脈で放送し、キティーちゃんグッズを街で目にしない日はまずない。ミニマリズムのシンプルな家具や空間の事を、「ジャッポー(日本的?)で、アルマーニスタイルよね」と若者のスラングにも絡んでいる。「日本や日本人が、もしかしたら、オシャレで格好良いのではないか?」と、若者たちは意識している様だ。ファッションブログのページでも、日本人が被写体として、かなり食い込んでいるのも、彼らは決して見逃さない。

 ミラノのブティックで見つけた日本向け募金箱

そんな意識の高まりの中で震災でみせた日本人の落ち着きに、イタリア人は自分達にはないものを感じ、惹かれてたようだ。私が日本人なので、元々、日本に興味のある人達が寄って来る。しかし、震災後はそれ以上の何かを再確認させてくれた。彼らがチャリティー精神を発揮する時、お返しが欲しいわけではない。友情のような、なんらかの連帯感さえ感じる事ができれば、それで満足している。今回のこの場面では、日本は全面的に助けを求めても良い局面だったはずだ。

大抵のチャリティーイベントは、日本人が企画をして、それにイタリア人が絡んで来る形を取っていたが、完全にイタリア人が企画したイベントもあった。Camera 16という画廊の写真展は、「KOKORO」と言うタイトルをつけて、80人の写真家が参加した。ミラノの写真界のネットワークが、この写真展を成功に導いたようだ。参加している写真家の中には、有名な名前もいくつかあった。イタリア人独自でも、日本のためのチャリティーをしようとしてくれていたのだ。彼らの行動力に、ひたすら感謝したい。彼らイタリア人に誘われ、私も写真で参加した

 完全にイタリア人主導で企画されたチャリティー写真展『KOKORO』

この時期、私はミラノのロータリークラブでも講演する機会に恵まれた。「日本人がイタリアから学んでいるものと、イタリア人に学んで欲しい日本的なコミュケーション」について、話した。私たちが勝手にイタリアから学んでいる「ちょいワル」や「ミラノマダム」という概念を説明したり、イタリア人が惹かれている我々日本人のコミュケーションの空気感についての謎を解き明かしたりしてみた。ロータリークラブの友人から最初に講演の話があったのは去年だったので、当初はただ自分の写真の世界観を見てもらおうと思っていた。ただ、日本の存在感が、震災後色々な意味で高まっている以上、日本人の私は日本の事を語る必要性を感じた。。。

ミラノのロータリークラブでの講演。

理想論として、人の事を国境で分けたりしたくない。ただ、外国に住む私は自分が日本人である事を、時には無視できない場面がある。まずイタリア人から見ると、私が日本人であると言う事実はかなり重要らしく、何かと日本の事を聞いて来る。彼らにとっては私は日本という国と文化を代表する存在なのだ。そして、この外国人の私を暖かく迎え入れてくれている。それどころが、助けてくれようとしている。

日本の文化と人間性を磨いて来た先人達に、ただただ感謝している。しかし、逆を返せば、放射線や放射性物質を地球にまき散らしている国の一員としても、堂々と矢面に立たなければならないのかもしれない。我々が過去の世代に感謝するように、未来の日本人は、我々世代に感謝してくれるのだろうか?果たして、今、我々がするべき事を遂行しているのだろうか?

 ミラノのコーラスグループが企画した
チャリティーコンサートの会場前には
イタリアと日本の国旗が。


Tuesday, March 22, 2011

震災とインタビュー


ミサの告知記事の隣に
震災について、カトリック系の新聞のインタビューの受けた。被災者でもないので、私には語る資格などないようにも一瞬思えたのだが、とにかく在ミラノカトリック教徒の日本人に日本の話を是非とも聞きたいと言う趣旨だったので、喜んで協力した。

インタビューなので、自分の意見などは封印し、なるべく質問に答える事にした。多少の脱線は記事に動きを与える事があるものの、大きく脱線し過ぎても書けない事が多い。3月20日の日曜日にはDUOMO(ミラノの大聖堂)で、震災の日本人の為に祈るミサが予定されていた。私自身もジャーナリズムに関わるゆえ、そのミサの告知記事の隣辺りに私の記事が来る事も何となく予想できた。
 
(3月20日版のAvvenire。Giapponese(日本人)の文字が。
ミサをの告知と、私のインタビュー記事)


家が津波で流された友人の家族の話や、暖房や食料もままならないのに、被災地で風邪を引いている友人の話をした。日本は豊かな国だが、今、日本は現実的な助けを必要としている。

私は、遠くミラノに住んでいて、震災には関係ないようだが、仕事や用事のない時間の多くは震災関連のニュースをネットで集めている。海外ニュースと国内ニュースで温度差があり、その差の理由などを、またネット上で漂流して探すといった具合だ。のめり込みすぎて、吐き気を感じたりする事もある。共感疲労と呼ぶらしい。記事のタイトルには、「Sto male , ma devo essere forte (具合が悪くなったりもするけど、しっかりしなくてはならない)」と書いてあった。被災者ではない私たちも、なんらかの形でサポートに関わらなくてはならないのだから。

東京の友人達が、なるべくいつも通りに働こうとしていると言う話は、とてもリアルに感じたようだ。海外トップニュースは、津波や地震のハイライトが多いからだろう。現時点で東京が止まってら、日本全体が止まってしまう。 みんなパニックを起こさない様に、落ち着いて暮らす様に心がけている様だ。

インタービューの日は静岡でも地震があったばかりで、それについても触れる事となった。私は、その日、ネット上で震源地の地図と日本の地図を重ねたものを見た。震源地は、ほぼ富士山だった。「富士山を震源」と言わず、「静岡県で強い地震がありました」と伝えるニュースに、私は却って不安になってしまった。富士山は地理的にも日本の中心だが、精神的にも中心だから、富士山はぜひとも無事であって欲しい。静岡県には浜岡原発もある。

原発についてはとりあえず一行
原発については、今年イタリアで市民投票がある関係で、そのテーマだけで、イタリアでもゴールデンタイムに1時間程の特別TV番組を組むぐらいの大問題と捉えられている。だから、この記事では深く入るのを避けたのだろう。「体を張って働いている無名の志士に、我々は祈りを向けている」事が、一行触れられていただけだった。原発に関してはヨーロッパの世論が、大きく揺れ初めている。地球温暖化問題と原発推進は両輪で連動していただけに、これからも議論が続くだろう。

日本人なら、この苦難を超えられる。そう、みんな思っている。神は超えられない苦難など与えないのだから。でも、今、我々は助けを必要としている。そして、世界は日本の事を助けたいと思っているのだ。カトリック系の新聞社も、私へのインタビューでそれを再確認したかったのだろう。どう助けたら良いのかは、彼らもオファーしてくるだろうし、我々から頼んでも良い。もう、具体的な方法を探りはじめている段階に来ている。

記事が新聞が載った日、ミラノ郊外の教会の見知らぬ神父から早速メールが来た。日本のコミュニティーと対話を持ちたいという申し込みだった。

何かと忙しくなりそうだ。もしかすると、震災の影響で日本の媒体の仕事は減るかもしれない。それは、ちょうど良い。「日本の文化とか、今の状況とか、じっくり対話してやろうじゃないか。。。」ついでに、募金も集めてこよう。

イタリア人の日本への興味は、ここ数年かなりのものだ。空前の日本食ブーム、おしゃれなクールジャパン、教育水準の高さ、他人を尊重する態度。それに震災で見せた落ち着きとカミカゼ魂、、、、興味がつきないのだろう。

今朝は、電話で起こされてチャリティー美術展覧会の企画の連絡があった。メールにはテレビ局がインタビューに答える日本人を探していると言うメッセージが。。。

海外在住17年。たまにしか帰国もしないけど、日本人として産まれた自分に相変わらず感謝。


 (L'articolo in Italiano. Clicca l'immagine per ingrandire)



Sunday, August 15, 2010

エルサレムの聖マリア

20代、許す限り旅をした。数ある訪れた場所の中で二カ所、また必ず戻ってきたいと強い縁を感じた場所があった。一つがイタリア。思った通りに、戻ってくる事ができた。それどころか、現在こうして住んでいる。

もう一つの場所は、イスラエルだった。十年以上前に一度訪れたきり、再訪の機会は、まだない。

 [徴兵前の抱擁]

イスラエル行きを決めたのは、知的好奇心からだった。多くの戦争の火種が、そこから来る。なぜ、イスラエルなのか?そんな漠然とした疑問があったのだ。

まずは、飛行機の窓から見えるエジプト領の紅海沿いのシャルマシェイク空港に驚いた。滑走路が見えなかったからだ。砂漠に直接降りて行くように見えたのだ。徐々に飛行機が高度を下げて、着陸しようとすると飛行機の風が砂を舞い上げて、滑走路が顔を出した。滑走路がうっすらと、砂に覆われていたのだった。

[行き来する車は、みんなの交通機関となる]

エデンの園があってもおかしくないと思わせる場所

そこからはエジプト人のトラックの荷台や、行き来する乗用車に乗せてもらって、ゆっくりと北上した。紅海沿いのビーチのいくつかに滞在しながら、私は旧約聖書を読んだ。
神が六日間で地球を作って七日目に休んだ話や、アダムとイブが蛇にそそのかされて禁断の木の実「リンゴ」を食べて楽園を追われてしまった話など、都会で読んだなら、おとぎの世界のような話が、紅海に浸りながら読むと現実感のあるものとなった。砂漠と紅海には、普段の論理的な思考をさえぎる様な雰囲気があった。人の少ない紅海沿いのビーチの向こう側に、エデンの楽園があっても、決しておかしくないとさえ思ってしまった程だった。そして、うむも言わせない強い存在、言うなれば「神」が存在しているような空気があるのだ。

地中海は一神教生誕の地。砂漠の自然は厳しい。アラブ語もヘブライ語も、人々はノドをかき鳴らして話す。風にかき消されて、自分の声さえ響かないような場所なのだ。アジアの様に、観察したり触ったり、跳ね返って来る自分の声で、相対的に自分の存在と位置を確認できる豊かな優しい自然とはまったく異なる。砂漠では自分の存在や位置を確認したり、次に行く場所を決める時、空をあおぐしかないのだ。それが、概念としての「神」を必要としたと言う説があるようだが、おおまか納得できる。

人生最高のキブツの食事、誰もが欲しがる土地

更に北上して、エジプトからイスラエルに入った。モーゼに導かれたユダヤの民も似た道筋を通ったのかもしれない。まずは、死海の近くのキブツに泊まる事にした。塩分のせいで体が浮く事で有名な死海も体験してみたかったからだ。キブツとはイスラエル各地に、ユダヤ人が形作った自給自足コミュニティーの事である。いわゆる共産主義が、完璧に機能している。リーダーは持回り制で、それぞれは、土地財産などの所有物をほとんど持たない。なにより一人一人の教育レベルが高く、意識的に農作業などの仕事に励むのだそうだ。子供たちは、行きたければアメリカの大学に行く事もできるし、コミュニティーが支援する。なのに将来、コミュニティーに帰ってくる必要もないのだそうだ。いわゆる宗教的なコミュニケティーでもない。共産主義は、コミュニティーが小さくて、個々の目的意識が高い時には、機能するものらしい。

そして、その死海のほとりのキブツの食堂で食べた食事は、今までの人生で食べたものの中で、最も美味しいものだった。私は感動しすぎて、泣きそうになった。その食事は、パン、ヨーグルト、野菜サラダ、卵焼き、肉のグリル、果物のような至ってシンプルなものだったが、何かが特別だった。地球のエネルギーが、ダイレクトに体に入って来て、体中の細胞のすべてがビックリして目を覚ましたようだった。

キブツのメンバーと一緒に、死海にも行ってみた。老若男女がケラケラ屈託なく笑いながら泥を塗り合っていた。海水の10倍の塩分を含むという塩湖に体を浮かべてみた。心身ともに、生き返った気がしてきた。食事といい、死海といい、それ以上のものは、何も必要と感じないであろう。私は体の芯から、満ち足りてしまった。英語で「The Promised Land(約束の地)」と言えば、イスラエルの事を指す。私は、そこが特別な場所だと、確かに体で感じた。こんなに特別な場所なら、誰もがこの土地を欲しがって、戦争するのも不思議はない。。。戦争の火種は、そんな土地の特別な磁気から来るのかもしれない。とにかく、とてつもない土地の恵みを感じた。他のどこの場所でも、こんな感覚は感じた事はなかった。

[階段の踊り場で祈る修道僧]

エルサレムでの神秘体験、聖マリアとの出会い

南の砂漠地帯、北の森林地帯、イスラエル各地を色々と回った。しかし、イスラエルの旅のメインイベントはエルサレムへの巡礼だろう。ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の巡礼地であり、戦争や人類の歴史の舞台の中心地である。宗教的には完全にニュートラルだった私は知的好奇心で、各巡礼地を普通に見物するつもりだった。。。

イエスキリストが十字架に掛けられたゴルゴダの丘があったされる場所には、聖墳墓教会というキリスト教の聖堂がある。何世紀にも渡って、ローマカトリック、ギリシャ正教会など6つの教派により共同管理されていると言う。有名な教会のわりには、入り口が極端に小さかった。それは、教会を守ると言うのが、命がけだった証拠でもある。

聖堂の右の階段を上がった所が昔のゴルゴダの丘にあたり、そこにも小部屋があり聖マリア像があった。細かな記憶が曖昧なのだが、その部屋にいた正教会系の神父と、短い会話を交した後、確か聖マリア像のちかくに座った。そして、私は、何の前触れもなく突然泣き崩れたのだった。五分泣いていたのか、一時間泣いていたのかも、分からない。まったく時間の感覚が麻痺していたからだ。泣くと言っても、シクシクと涙がこぼれると言う泣き方ではなくて、声をだして激しく嗚咽していた。そして、どこからともなく無限の白い光がやってきて、優しく私を包んだ。その白い光の存在は、とてつもなく暖かい愛のエネルギーだった。私は今まで一人で旅してきたと思っていたのだが、それが完全な誤りだった事に気がついた。その存在は、常に私と共にいてくれていたのだ。そして、すべてが許されることも知った。あれ以前にも以後にも、あの時の様な100%の幸福感を感じた事はない。その白い光は、空に浮かぶ白い雲のようにフワフワしていて、360度すべての角度から、まるごと私の体をすっぽりと包んでくれた。嗚咽している間も、巡礼者や観光客がひっきりなしに、その部屋に入ってきたり出て行ったりしていた。観光地の教会というのは、人がたくさんいて騒々しく、清々しい雰囲気などないものだが、そこも例外ではなかった。私は目をつぶっていたわけではないので、そんなザワザワした人々の動きを涙越しに見ながら、平行して同時に、その無限の白い光を見ていた。自分が、矛盾なく、連続した二つのパラレルな世界に存在していた。

私は、探し求めていたわけでもないのに、いきなりそんな神秘体験をしてしまったわけだ。聖マリア像の近くに座っていたせいか、その暖かく無限の白い光の存在を聖マリアだと思うようになった。その体験以降、その白い光の存在だけには従順でありたいと思うようになった。例え、地球上のすべてのものに反抗したとしても。。。

[第三の目のチャクラが発光し、目に涙をためているようにも見える聖マリア像]

嗚咽の後、帰り際に私は、聖マリア像の写真を撮ったようだ。ニューヨークの自宅で白黒フィルムのネガを現像して、また驚かされた。その彫像が生きているような表情をしていて、しかもうっすらと涙を浮かべているように見えたからだ。「マリア様も泣いているではないか?」更に額の第三の目の所が、なぜか発光していて観音像のようにも見えた。私は写真を撮った時には、その額の光には気がつかなかった。実際、そんな光はあったのだろうか?
まあ、ろうそくか、なにかの光が反射したに違いない。ただ、二つの光が聖マリア像の両方の目に反射して、涙をためているような表情を演出し、もう一つの光が観音像のように額の第三の目のところで、ばっちり反射していた。そんな三つの光の完璧な偶然が起こるのは、とても稀な事だ。そんな偶然が、この写真の不思議な雰囲気を醸し出していた。

今では、この偶然が必然だったと解釈する事にしている。そして、あの白い光は普遍的な女神の愛の現れだと思うのだ。あの白い光を、仏教徒とは観音様と呼び、キリスト者は聖マリアと呼び分けているのではないか?東洋でも西洋でも、古代から同じ様に女神のエネルギーが降り注いできたに違いない。この写真には、西洋の聖マリアの向こうに東洋の観音様が透けてみえていると言うのが、自分なりの結論としている。
そして、現在、ヨーロッパに在住している事もあり、なんらかの形で東洋と西洋の橋渡しを担いたいと思う様にもなった。

今なら、軽く話せるのだが、当時は一年以上も私は誰にも、その神秘体験の一部始終を語る事はなかった。どう語って良いか分からなかったからだ。

旅が、人の人生を変える事もある。どう変わるかは予測できない。イスラエルへの旅行の後、世界中の宗教の比較や、仏教の密教を勉強してみたり、ヨガ、瞑想などを実践してみたりした。しかし、あの白い光の存在が、すべての私の行動の規範となっていた。堅苦しい事はなにもない。すべては許されるのだから。ただ、あの存在を裏切る事はできない。それだけは絶対な事となってしまった。そして、神秘体験から約十年後、私はカトリックの洗礼を受ける事となった。

次にイスラエルに行くとしたら、知的好奇心だけでなく、カトリック信者としても巡礼に行く事になるだろう。前回のように自由な身で行くのも楽しいだろうが、、、今の様に、自分の立ち位置がはっきりした上で見てみると、もっと深い事が分かるかもしれない。自分の信じている宗教が他よりも優れているなどと偏狭な想いを持たない限り、まだまだ面白い情報が入って来ると信じている。

戦争の火種がある場所だからこそ、「許しのテーマ」を背負って、キリストが、かの地で登場したのかもしれない。ただ、そのテーマを人々が理解したとは言い難い。

Monday, March 22, 2010

ミラノのマドニーナとの出会い

 
[ミラノの中心のドゥオモ広場]

マドニーナとは

ヨーロッパの冬は暗く長い。住み始めて初めて知ったのだが、“太陽の国”と思われているイタリアも例外ではなかった。イタリアの文化は冬に育み、夏に開花する。華やかさと深みが両立する、ここの文化の秘密だ。
イタリアの街の中心には、必ず「ドゥオモ」と呼ばれる教会あり広場がある。まず、中心を定めて、そこから放射状に道を配置するのが、イタリアの街の作り方のセオリーである。ミラノのドゥオモ教会はマリア様に捧げられ、その突端では黄金に輝くマリア様が街を見下ろし、いつも見守っている。ミラネーゼ達は、 この街の守護聖人である聖母マリアを「マドニーナ」と呼び親しんでいる。

2002年の冬のある日、私は道端で写真用の三脚を見つけた。なかなか大きくて丈夫なプロ用のものだった。人通りの多いその歩道に横たわる三脚の周りを、歩行者達が避ける様に歩いていた。それは不思議な光景だった。こんな大きなものを道端に忘れるとは、どういう事だろう。そのフォトグラファーは、撮影の後、よほどの急ぎの予定があったに違いない。一週間前から約束していた親戚とのディナー、もしくは新しい恋人とのオペラ鑑賞の約束だったのかもしれない。
人通りの多いその歩道で、その三脚は明らかに邪魔な存在で、歩行者達の障害になっていた。立ち止って一瞬ためらったものの、私はその三脚を拾う事にした。
その日、私はファッションショー関連の撮影の仕事をしていた。毎年2月に行われるレディースのミラノ・コレクションの時期だったからだ。連日の仕事で神経を多少すり減らしていたものの、スポーツをした後の心地の良い疲労感のような感触もあった。そし て、その三脚を片手にボーッっと何も考えずに歩いていた。

はからずも揃った機材

ミラノの中心のドゥオモ広場にさしかかった時、その日が満月である事に気がついた。そして、広場の真ん中ぐらいに来た時に、その満月がドゥオモ教会の突端にある金色のマリア様の真後ろにあって、後光を差しているように見えた。しばらく、あっけに取られて、ただ見ていた。しばらくすると、雲がマリア様の周りを避ける様に動きはじめていた。マリア様のオーラが雲をコントロールしているようだった。

ふと我にかえった。ファッションショーの為に使っていたカメラにはすでに望遠レンズがついていた。フィルムも高感度のものが入れてあった。しかし、夜の風景は光量が低く、8分の1秒か、もっと遅いシャッタースピードで切らなくてならない。望遠レンズとの組み合わせだと大きく手ブレが出てしまって良い写真にならない。 ファッションショーの仕事では邪魔になるので私は三脚を使わないのだが、その日は、直前に偶然手に入れた三脚があった。はからずも、拾った三脚のおかげで、機材はすべてそろっていたのだ。 

 [2002年の冬に撮影した、ドゥオモ教会のマドニーナ]

拾ったばかりだったので、まだ慣れない三脚だったが、慌ててそれを広げて、その上にカメラをのせた。この三脚のおかげで、手ブレが防げたわけだ。ファインダー越しに見るマリア様は,とてつもない無限のエネルギーを発散していた。カメラを覗いていると、雲の動く速度は普通に目で見るよりも、とても早いのが分かった。
満月の月の光が、雲に反射して、その力を増幅させていた。みるみるうちに、マリア様が放つオーラをかたどる様に、そこだけ雲が裂けていった。見事にマリア様のオーラを月光と雲が表現していた。もしくは、月、光、雲、空気などがマリア様への尊敬の念をあらわにして いたようなようにも受け取れた。仏教画で言う後光と、キリスト教美術で言う聖人頭部の正円のアイデアを混ぜた様だった。映画の特殊効果の様な光景が、現実の目の前で繰り広げられていた。
ミラノのゴシック様式のドゥオモには、金色のマリア様が中央の突端に、その他の多数の聖人たちの彫像が、その周りにある。その聖人達が、マリア様の言葉を静かに聞き入っている様に見えた。マリア様のメッセージを一言一句、全身全霊で彼らは受け止めていた。
「そうか、マリア様は他の聖人達よりも一つ高い位置にいる」
マリア様はドラマチックに女性エネルギーを顕現させ、世の中を慈悲の心で包んでいた。私も聖人達同様、試しにマリア様の言葉に聞き入ってみた。
ファインダーを、息をのむ様に丁寧に覗き込み、自分の心臓の鼓動を押さえ込みながら、シャッターをたくさん切った。しばらくして、マリア様は何かを言い終わって、自分の気配を、いつも通りに戻した。そして、あっという間に厚い雲が満月を覆ってしまった。マリア 様の後光も消えて、いつも通りの風景に戻った。ほんの数分のスペクタクルだった。
マリア様が話していて、周りの聖人達が、それを熱心に聞いていた所までは理解できたのだが、マリア様が何について語っていたのかまでは分からなかった。私はマリア様の言葉を理解する能力が決定的に欠けていたからだ。何か大事な事を言っているのに、言語能力のせいで理解できないのは、なんとももどかしかった。マリア様の言葉を、もっと理解したいと思ったのは、その時からだった。

偶然居合わせた二人のミラネーゼ

ふと、目をカメラから上げると、たくさんのミラネーゼ達が足早にどこかに向かっていた。夜の7時半くらいだった。ドゥオモ広場には、家路に急ぐ人や、食前酒を飲みに行く人もいたことだろう。群衆はいつもの様に忙しくしていた。このドラマチックなシーンを見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。2人とも、私の近くにいた。そこが広場の中でも最も良く 見えた地点だったからだ。
私たちは目を合わして、「 Bellisima!見ましたか?」「 Incredibile!こんな不思議な光景、初めて見ました」などと言って、その信じがたい出来事について興奮して話した。彼らは、その体験を共有した仲間だった。もし、写真がよく撮れていたら、是非連絡をくれないかと、その初老の紳士達は、二人とも彼らの名刺を私に手渡した。
それは、小さな奇跡、大いなるものからのメッセージとでも呼ぶべきなのだろうか。それ以来、ミラノのドゥオモのマドニーナを見上げる度に、感謝を含んだ謙虚な気持ちが沸き起こるようになってきた。 

その数ヵ月後、カフェのテーブルで友人達と私が撮りためていた作品を見ていた時に、その場に居合わせた1人から「ミラノの冬の夜の風景で写真展をやらない か?」と持ちかけられた。その頃、私はミラノに来てまだ日が浅く、自分の住む街に敬意を表し、自己紹介の挨拶のつもりで、その話にすぐ乗る事にした。
ミラノの冬は湿気が多く霧がちで、光が空気の中をゆっくりと進む。ひたすら夏と海が好きなイタリア人たちは、 ミラノの厳しい冬に文句を言うのが定番なのだが、私はそんな冬の光を眺めながら歩くのが大好きだったのだ。ミラノの夜の風景がテーマなので、当然ながらマリア様の写真も、その一つとして飾る事にした。
ドゥオモ広場で一緒にスペクタクルを見ていた二人にも招待状を送った。マリア様の良い写真が撮れていたら、個人的に連絡を取ろうと思っていたのだが、偶然にも展覧会に招待できる運びとなってしまったのだ。
彼らは二人とも初日のオープニングパーティーがはじまる時間の前に、すでに会場に現れて、あの写真はどこだ?とまっ すぐにマリア様の写真の前に歩いていった。数ヵ月たったのに、まだ全く興奮が冷めていない様子だった。すぐに写真を買うことに決めてくれて、オープニングを待たずに、お買い上げの赤丸がついた。彼らは、あの写真が合成写真でもデジタル加工したものでもないことを証明する証人でもある。

写真にまつわる小さな奇跡

私の小さな奇跡的な出来事と写真を人に分かってもらいたいとは思うものの、これらの事は分かる人には分かるし、分からない人には分からないものらしい。合成写真と思う人は、そう思えばいいし、写真にまつわる奇跡を信じ られない人がいても、それは私にはどうにもできない。しかし、私には人の評価などはどうでも良い事に思えた。マリア様とのコンタクトの方に、気がとられていたからもしれない。
ある友人は、「仏教とキリスト教が高い位置で交差しているように思えた」という感想をくれたし、別の友人は「マリア様のメッセージを聖人達が聞いているんだね?」と言ってくれた。むしろ、驚いたのだが、分かる人には的確に伝わっていたのだ。
イタリアのメジャー新聞の一つである「リパブリカ」に写真評論家が、とても良い論評を書いてくれた。「un giapponese:sotto la luna di Milano」(ミラノの月の下の日本人)というタイトルでミラネーゼ達が見落としているミラノの美しさを日本人が見つけてくれたという内容だった。私にとって、イタリアで最初の写真展は盛況に終わった。

[忙しく行き交うミラネーゼ達] 

落とし物、メッセージ

しかし、あの三脚は誰が忘れたものなのだろうか?三脚が道端に落ちている風景を私は、あれ以来見た事がない。あの三脚がなければ、写真が撮れなかっただけに、あの落とし物の価値が、私の心に迫ってくる。
「マリア様は一体何を伝えようとしていたのだろう?」
メッセージを発していたのに、私はその言葉を解する事ができなかった。どうやって、彼女の言語を覚えれば良いのだろうか?
とりあえず、マリア様に感謝の気持ちを伝えてみた。そんな私の小さな試みが、信仰という人類の壮大な試みにつながって行くのかもしれない。なんといっても今では、そんな私の妄想が、帰依の心を作り出し、人生の支えとなってしまったのだから。
あの日、あの光景を見ていたのは、私以外には、たったの2人しかいなかった。夕方のドゥオモ広場にはたくさんの人が行き来しているのに。私たちが普段、気がつかないだけで、あんな光景が毎日どこかで繰り広げられているのかもしれない。


Friday, January 8, 2010

フォトショップ、エストニア、父の愛情、HELEMAIの笑顔


 F.I.Tのフォトショップのクラス

HELEMAI は、NY在住のジュエリーデザイナーで画家。F.I.T.(ニューヨーク州立ファッション工科大学)のフォトショップのクラスの同級生だった。

1990年代の中頃、フォトショップで画像を加工しても、高画質に印刷する技術がなかった。印刷できないのだから、作品をつくる必要のあるアートスクールの生徒には役に立たない。しかし、そこには未来に対する投資という意味合いがあった。

ニューヨークの若者はそう言った意味での「未来」にとても敏感だったように思う。例えば、 隣のHTMLのクラスでは、ヴィジュアル的に複雑で、とても見栄えの良い、しかも電話線接続では、見られないような「重い」サイトをつくっている学生がいた。その当時、インターネットの接続は電話線接続以外になかった。要するに「重すぎて」、見られない。意味をなさないサイトだった。今考えると、彼らは、未来のためにサイトを作っていたようなものだ。

私たちのフォトショップのクラスでは、SyQuest とか言う44MBのVHSビデオカセットのような巨大なメモリーカセットを持参するのが必須だった。今では、あのメモリーカセットの百分の一ぐらいの大きさのUSBメモリースティックの中に、数千倍の情報を書き込む事もできるだろう。コンピューター関連の時代の進歩は本当にめざましい。

[ヴェネチアンマントを羽織るHELEMAI]

エストニアという国

フォトショップのクラスで隣に座っていたHELEMAIは、自分の絵画の作品をスキャンして、ケラケラ笑いながら画像加工を楽しんでいた。それがまた、常に芸術的に形になっていたのが印象的だった。

F.I.T.には、クラス以外の時間でもコンピュータールームにアクセスできるシステムがあって、まだ自分のコンピューターを持っていなかった私たちは、フォトショップの勉強がてら、よく遊びに行ったものだ。

ある日、コンピュータールームが閉まる時間になって追い出された後、HELEMAIと話しながら地下鉄の駅に向かっていた時に、彼女は自分がエストニア人だと教えてくれた。私は「エストニア?」と聞き返した。聞いた事もない国だったからだ。彼女は、 「フィンランドの隣の国なの」と答えた。

 「フィンランドの隣にそんな国があったっけ???」と私は地理の授業を思い出そうとしたが、なにも思い出せなかった。それもそのはず、そんな国は私の教科書には書いていなかったからだ。

「旧ソビエト連邦」と言ってくれればすぐにわかったのだが、彼女は、感情的に、そうは言いたくない事情があったのだ。サンクトペテルブルグの美術学校を卒業した後、1980年代後半に、幼児の美術教師としてアメリカに招かれた。ソビエト人として、アメリカに入国したわけだが、政情不安定な国の出身者の為の特別ビサで、アメリカ滞在の延長が許された。共産圏からアメリカに来るのはとても難しい時代だったが、芸術家としての自由を求めて、色々な手を尽くした。もちろん、ソビエト人がアメリカに滞在する方法など、どこにも書いていなかった。ソビエト併合以前のいわゆる旧エストニア人同士が助け合って、耳で聞いた情報だけを頼りに手探り状態な生活だったと言う。

エストニアは最初にソビエトから独立しようとしていた国だった。元々、言語も民族も文化も、ロシアよりもフィンランドに近く、知的レベルも高い国だったそうだ。タリン音楽祭で国家独立を示唆する歌を大合唱して、それから独立運動がはじまった。禁止されている歌を歌う事が彼らの意思を表していた。6万人で歌えば、ソビエト警察も全員を逮捕するわけにはいかない。歌う事が、エストニア人が得た最初の自由だった。 ソビエト政府の暴力的な武力に対して、エストニア人の独立運動は「歌う革命」と呼ばれた。しかし、その独立運動が、ソビエト政府を逆なでしてしまい、1991年、ソビエトが本格的な軍隊を引き連れて、エストニアを占拠した。そしてすべての独立運動もソビエト軍の圧倒的な武力によって鎮圧された。札幌市の人口よりも少ないエストニア人135万人の独立運動を根こそぎにつぶす事など、アメリカと武力を争っていたソビエトにとってみれば簡単な事だった。

父の愛情

その混乱の中、HLEMAIの父は、彼女に電話連絡をしてきた。「絶対にこの国には帰ってこないように。以前の様に、またロシア人によって、すべての自由が奪われてしまった。もう一生、会えないかもしれない。でも、お前はアメリカに留まるんだぞ!」彼女は初めて父の泣き崩れる声を聞いたと言う。

そして、しばらくしてゴルバチョフの行方が分からなくなり、その数日後には突然ソビエト連邦が崩壊した。 後になって考えてみると、エストニア占拠も、ソビエト崩壊途上の軍の最後の悪あがきだったとわかった。結果、エストニアが国の独立を勝ち取ったわけだ。HELEMAIの話で、「国が崩壊したり、独立を勝ち取ったりする」生の声を初めて聞いた。それはニュースや歴史の話ではなくて、一人一人の人間のストーリーに大きく影響するものなのだ。

コンピュータールームから地下鉄の駅に向かう途中、彼女が私に「エストニア人」だと名乗った時、彼女の脳裏には様々な事がよぎっていたはずだ。元ソビエト人の彼女は、今でもロシア語が聞こえてきても、知らない振りをするのだと言う。それほどに、ロシア人と一緒にして欲しくないという想いが強いのだ。

笑顔とは

HELEMAIがニューヨークからミラノに遊びにきた時、ミラノ唯一のデパート、リナシェンテのジュエリーコーナーで、偶然の彼女の作品を見つけた。一階の香水売り場の隣のジュエリーコーナーをみつけて、吸い寄せられる様に行ってみると、彼女がデザインを担当しているブランドが大きく店を構えていた。「この角のガラスケースの中、全部、私のデザイン」と言ってケラケラ嬉しそうに笑っていた。

彼女がデザインするジュエリーは、世界中で見る事ができるはずだ。アメリカンドリームをつかんだと行っても過言ではない。

ただ、彼女にアメリカンドリームという言葉は似合わない。純粋に普通の幸福を求めて、その時その時を必死に生きて来たような感じなのだ。

HELEMAIは、私に「笑顔」の重要さを教えてくれた。まず、彼女が笑顔を振りまくと、周りまでが笑顔で満たされる。幸福は「心の状態」であって、必要条件などないのだろう。笑顔のコツは、どんな状況でも何らかの幸福を見つければ良いだけなのだそうだ。実践は難しいかもしれないが、聞くだけなら、なんと簡単な事なのだろう!!!

「厳しい人生」と「純粋な笑顔」。HELEMAIに会ってから、その関係性を考えるようになった。

実際、周りを見ていて、純粋な笑顔を持っている人は、他人の痛みを分かる人で、しかも、その痛みを乗り越えてきた様な人に多いと思うのだが、どうだろう。